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博愛

フランス革命の時に用いられた標語が"Liberté, Égalité, Fraternité"であり、これは日本語に『自由・平等・博愛(または友愛)』と訳された。大正から昭和にかけての政治家であり、フリーメイソンの会員でもあった鳩山一郎が、この中のfraternitéを友愛と訳して普及に動いたため、当時の日本の、特に文化人の間に広まった。

この言葉は元々三つ一組だったわけではなく、『自由』に他の二つが順次付け加えられたものだと言われている。それを画策し、歴史の必然のように脚色したのがフリーメイソンだという。自由および平等の項でも述べたが、これら二つの言葉は日本人に馴染まず、日本文化の中で消化されなかったため、曲解されたまま現在も使われている。しかし三番目の博愛に関しては日本の風土と文化、そして日本人の気質に馴染んだため、瞬く間に広まった感がある。

Fraternitéは当時、友愛、博愛、四海同胞などと訳されたが、現在は友愛と訳されることが多い。この友愛は英語で言えばbrotherhoodあるいはfriendshipに相当し、兄弟姉妹の愛や友情を意味する。したがってイエスの説いたアガペーとは違っている。アガペーという言葉自体は歴史的変遷があり、もともとは家族愛のようなものとして使われていたようだが、新約聖書の著者がプラトンのエロスと一線を画すため、神の無償の愛という意味を込めて使い出したものらしい。

一方エロスには神秘的なニュアンスが含まれている。それは男女が肉体的に結ばれた結果として子供が生まれるからだ。大地から芽吹いて豊穣をもたらす植生の神秘と同じく、今も昔も、新しい生命が女の肉体から生まれるのは驚異であり神秘だ。

しかし聖書の記述者は、エロスの含有する聖性、すなわち肉体にまつわる興奮を悪であるように際立たせ、これを排除して純粋な精神愛を対立的に描いたようだ。そして神は神自身に何の利するところもないのに人間を愛しているのだから、人間も無償の愛を実践しなければならない、と説くようになった。しかしこれが後々、肉体的興奮を否定した歪んだ愛へと姿を変えることになる。すなわち興奮を恥または罪とする禁欲だ。中世のヨーロッパはもちろん、現在の世界中の多くの人々も(ヒンズー教徒は少し違うが)この肉体的興奮を評価できず、単なる欲望に貶めてしまっている。先ほども言ったように、性なるものは宇宙の本質である歓喜を、いわば雛形として人間に明示していると思われるのだが。

博愛話を戻すと友愛は中世からの脱却を象徴するかのように、宗教的な雰囲気を払拭し、世界全体に拡大されるべき人類愛として解釈されるようになった。こう表現されると博愛(=友愛)は、多くの人にとって人類の理想のように思われるかもしれない。しかし一見崇高に見えるこのフランス革命の標語も、実は自由や平等と同じく実体を伴っていない。それは愛の実践は具体的な行為そのものだからで、人類全体に対する具体的な行為などあり得ないからだ。

ここには一般庶民のみならず、知識層も含めたほとんど全ての人を勘違いさせているカラクリがある。我々が愛を実践するの場合、ごく普通に相手を助けたり励ましたり、じっと見守ったりする具体的な行為によって行なわれる(じっと見守るのもれっきとした愛の行為だ)。これらを除いて愛の実践は存在しない。したがって日本人全員を愛するとか、人類全体を愛するといった表現は空文に過ぎなく、何も語っていない。

しかし寄付行為や災害地へ送る物資の拠出や、実際に被災地に救援に行ったりするのは人類愛と言えるのではないか、といった考えをお持ちの方もおられるかもしれない。これについてお話ししよう。

寄付行為については『宇宙と人間の本質-個別的事実』の項目の『赤十字』のところで述べているように、必ずしも善意が末端に届くとは限らないし、途中で莫大な金が何らかの名目で消えることも多い。これは政府による難民救済や後進国援助でも同じだ。名目はいくらでもある。組織の役員・職員の人件費。現地政府の高官・政治家への謝礼、すなわち賄賂。輸送費、旅費、現地事務所代、食費、会議費等などだ。末端へ届くのは全寄付金の僅か1割か2割だという報告もある。日本国内でさえ政府の助成金や日本赤十字に集まる寄付金などの多くが、どこにどのように使われるか明らかにされていないのだから、この話は決して大袈裟ではないだろう。

寄付行為はよほど注意しなければ善意が実を結ぶことはない。もし本当に善意を届けたいのなら、難民キャンプ、後進国、被災地などへ、自分たちでチームを作って現地までお金や物資を届けるしかない。

結局博愛も、具体的な行為に及んで初めて実を結ぶわけで、漠然とした概念などは何も語っていないことになる。我々はまず身の回りから、他の人とごく当たり前に助け合い、援助し合い、励まし合わねばならない。そして余裕があれば、少し遠くの困っている人々を助けに行くのがいいだろう。また寄付行為は、もし十分にその活動内容や組織内容、救援の仕方などが分かっていて、しかも適切なお金の処理が行われているのが分かれば、その団体に対しては無駄にはならないだろう。

今の時代は自分や自分の家族や自分の知り合いのためだけに行動する人と、身近な人と他人とを問わず自分以外の人のために行動しようとする人に分かれていきつつあると思う。具体的には、自分や自分の家族、自分の友達のためにしか行動しない人、世間の常識や流行にだけ追従する人、スピリチュアル系怠惰人のように口先だけ美しいことを言って何も行動しない人などは、本物が徐々に根を張り、本物が台頭する新しい時代が到来するまでには淘汰されていくだろう。

一方他人(ひと)のために行動している人、行動しようとする人はいくつもの試練を超えなければならないだろう。その一つは先にも言ったが、自分は善人であるという驕りに陥らないようにしなければならないことであり、また使命に目覚めるのはいいが、自分が選ばれた人間であるかのように思ってはならないことだ。さらにもう一つは人や団体への寄付行為や援助などが無駄に終わったり利用されていたことが分かったとしても、怒ったり挫折したりせずに、もっと賢い方法を用いて前へ進まなければならないことだ。

現在の地球を俯瞰すれば、破綻寸前の世界経済、欲にまみれた人心、競争と戦いを煽る社会風潮が見えてくる。そんな中で真っ当な感覚と感受性を持った人々は発狂寸前のところでじっと耐えて生きている。人が病み、自然が病み、地球が病んでいる。こんな世の中が長続きするわけはない。終末やカタストロフィーの予言などなくても、事実をきちんとを見つめれば、時代は大きく変わらざるを得ない状況にあるのが解る。

ただし自分だけ解ったつもりになって傍観していても、現実をより良いものに変えることはできない。こうした世の中だからこそ我々は意思表示をしなければならないだろう。あなたは今我欲に生き、現状維持に躍起になっているだろうか。それとも皆が他人(ひと)のために生きる世界を実現するために行動を起こしているだろうか。未来は決まっていない。明日の地球は一人一人の選択にかかっているだろう。


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