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結論

<ここでは大胆にも断言的な表現を使わせていただく。それはその内容が同じ認識を持つ者にしか理解され得ない、すなわち論証不可能なものだと思うからだ。これを読まれる方は自らの感性に沿い、自らの魂で読んでいただきたい。>

愛は相手を肯定するところから始まる。すべての人には優劣、強弱、正邪などの比較によっては測れない特性がある。それは全ての人の心の奥に、それぞれ違う種が植えられているからだ。しかもこの種には芯があり、芯は輝きを持っている。そしてこの輝きは宇宙の本質と繋がっている。その輝きの正体を言葉で言い表すなら親和力だ。親和力がある以上、人は他と結びついて歓喜を味わう。これが宇宙の摂理であり、したがって宇宙は歓喜によって成り立っている。

人それぞれの種は心の奥底に埋め込まれているため、その特性がそのまま外に出ている人は少ない。とは言え種の持つ特性と正反対のものが表に出たりはしない。何らかの形で、大なり小なり人は自分の種の特性を表に出している。

この種の芯に輝く光が宿り、その光は表に出るのを待っている。我々が目先鼻先の欲や、驕りや、高慢さを払拭すれば、この光は一気に人の表に現れる。本心は光を求めていながら、周りにあるものを次々と着込むので、実際には光の出口を塞いでしまっている。我々は肩書や名声や知識や論理や預金の金額などいった、様々な鎧で自分を守ろうとするので、光は表に出ようとしてもその出口を見出せないでいる。しかし一旦その光が表に現れ、他の人を照らしたとき、人はこれを愛と感じる。

全ての人はこの輝きを魂の奥に秘めているので、人は決して穢されてはならない聖なる存在であり、肯定されるべき存在だ。したがって愛は相手の肯定から始まる。もし相手の本質を見抜いてその輝きを知れば、我々は相手の存在を肯定せざるを得ない。何故ならその輝きは価値そのものだからだ。

宇宙は光から始まったが、翳(かげ)りに翳って様々な階層的世界を生み出し、ついにはその底に物質世界を造り出した。底の世界は波動が粗く、薄い闇に覆われている。けれど物質世界にあっても、生きとし生けるものはその魂に光を持ち、その光は宇宙の本質と繋がっている。すなわち波動の粗い物質世界であっても、その背後には輝き続ける光が存在する。その光を別の言葉に置き換えれば歓喜であり、親和力であり、聖性であり、豊饒であり、崇高さであり、美であり、愛そのものだ。

宇宙は自ら生成し、変化し、多様化し、進展し、止まることを知らない。すなわち宇宙は一切を創造しつつある。この創造は愛の力によって行なわれ、その愛は光から出来ている。すなわち宇宙は初め光として生まれ、光に満たされていたが、その光の機能として愛が生まれ、愛によって森羅万象が造られた。したがって宇宙は光そのものであり、愛はその宇宙の本質として存在する。

しかし実際には我々は光そのものを見るのではなく、波動の粗い影を見ている。影には実体がない。それは影が光によって消え失せてしまうことからも解る。我々はいわば光を覆う闇の幻想の中で生きている。この幻想は影であるゆえに宇宙の本質ではない。影は光の遮断によって生まれ、そこに闇の世界が形作られるが、もともと光の遮断がなければ生まれ得ない世界であって、闇のこの世界は光に依存したまやかしの世界だ。すなわち影は光の表面を漂う幻想であって、水に浮かぶ泡のようにやがて消える運命にある。

闇を好んで闇に生きようとする者はこの泡のように、幻想の世界が終わる時に消えることになる。光もまた幻想であると言うこともできるが、しかしそれは宇宙を生成し創造しているものなので、宇宙そのものが消滅する時でなければ消えることはない。

我々の本質は宇宙の本質と同じく光であり、光の機能としての愛を秘めている。よって表に現れる出口を用意してやれば、人は愛を発現し、周りの人を愛で包むようになる。その愛は強いることがないので不快感を及ぼすことがなく、忍耐の形を取って他人(ひと)を見守り続けるので、相手が振り向いた時にいつでもその人を受け止めることができるように働く。このように愛は他人を嫌わず、憎まず、怒らず、相手を包み込む受け皿として機能する。

生き物の多くは雌雄に分かれて求め合う。それは性もまた愛だからだ。愛は親和力であるため互いを結び付ける。結ばれることによって歓喜が生まれ、歓喜は華美なる感情をもたらし、この感情が互いを聖域へと誘(いざな)う。雌雄を分けた生きとし生けるものは、この聖域で崇高な交感を体現し、豊饒の結果へと導かれる。このように愛は創造に関わり、常に生まれつつある宇宙の変化・発展を支えている。すなわち愛は創造と共にあるがゆえに滅びることがなく、創造と共にあるがゆえに宇宙開闢の時から永劫の未来まで在り続ける。

愛は他の者を活かし、活かした者は活かされ、互いを清く豊かな関係へと導く。それは愛の本質が創造であるため損なわれることがなく、清貧なるものに甘んじることもないからだ。創造の技は豊穣をもたらし、多様さをもたらし、美をもたらす。そして創造の技には歓喜が伴う。

歓喜は満足や幸福や充足を超えた、究極の愛の現れであり、森羅万象は歓喜の歌に満ちている。耳を澄まし、心安らかにし、自分にこだわらず、現世的な欲から離れれば、歓喜の歌が全宇宙を貫いて響き渡っているのに気付くだろう。愛はこの歓喜と共にあり、歓喜を発現させるものとして機能し、かつ歓喜そのものでもある。

結論これまで、そして今も、我々の多くは愛を求めながら盲(めしい)のように見えず、宇宙に満ち満ちる歓喜の歌も聾(みみしい)のように聞こえずにきた。しかし時が迫り大変化の節目を迎えつつある今、まだ見えもせず、聞こえもしないけれども行動を起こした人たちが、徐々に愛に目覚めつつある。中にはすでに愛を見出し、歓喜の歌を聴いた人たちもいるが、その人たちでさえ、新しい時代に向けて何をどうすればいいか解らないでいる。しかしそれは難しいことではない。創造を仕事とし、歓喜を味わって生きられる世界を実現するために、身の回りから変えていけばいいからだ。

我々のこの時代、千載一遇の好機が巡ってこようとしている。それは人類が新しい時代に向かって羽ばたく、大転換の到来を意味している。その飛翔を確かなものにするために、我々は今から行動を起こしていなければならない。我々の行動は不完全な雛形に過ぎないが、しかし雛形の向こうには本物が待っている。この不完全な物質世界では我々の言動は完全なものにはなり得ない。しかしそれを乗り越え突き進む意志がなければ、新しい世界へ渡ることはできない。

宇宙には停滞がない。いかなる存在も休むことなく活動し、分子原子に至るまで一瞬も動きを止めることはない。それはこの宇宙にある如何なる存在も、静止によって死がもたらされるからだ。もしその静止が森羅万象に波及すれば、宇宙自体が終焉を迎える。よって動かずに停滞の中にいるものは、如何なるものも淀みとなって腐敗し、死の淵へ落ちてゆく。

この宇宙において停滞が死を意味する以上、単に待つだけでは新しい時代にはならない。もし何もせずに時代が変化したとすれば、到来する世界は腐敗する淀みのようなものになるだろう。「たなぼた式」に何かが与えられるのを待ち望む怠惰な人たちは、自分を穢れない人間だと思い、美しい言葉だけを口にし、自分は悪いことをしていないのだから救われるはずだと思っているかも知れないが、自分からは何も行動しないので、やがて腐敗の穴へと落ち込むだろう。

世界は自ら求め、自ら行動する者によって初めて変わり得る。自分の行動によって状況が変わり、世界が変わり、宇宙もまた変わるのは、それが静止することのないこの宇宙の法則に適っているからだ。

愛は思っている段階では自己満足でしかない。思っているだけでは何も変えられない。我々が宇宙の本質を秘め、宇宙と一体であるという事実は、我々が行動することによって宇宙もまた変わっていくことを意味している。現状にしがみついたまま、引き続き輪廻転生の輪の中に閉じ込められることに甘んじるか、さらなる暗い世界に引き込まれてそこに居座ることに満足するか、あるいは今巡ってこようとしている好機を捉えて自らを新しい時代へと導くか、どの結果に至るかは私たち自身の行動にかかっている。

<愛、博愛の項 終わり>


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