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        <title>現代未解決問題取扱所</title>
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        <description>現代未解決問題取扱所 - この宇宙や人類に関する多くの未解決な事柄に立ち向かい、何らかの方向性を見出すことを目的としています。</description>
        <language>ja</language>
        <copyright>Copyright 2009</copyright>
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            <title>「神」の記事を作成しました</title>
            <description><![CDATA[<p>大変お待たせいたしました。</p>

<p>12/6（日）に開催された勉強会でお話しした、「<a href="http://mitsuno-y.com/file/category/cat28.php">神</a>」後半の記事を公開しております。ぜひご覧になってください。<br />
※今回更新したのは『<a href="http://mitsuno-y.com/file/200912/20_213001.html">所長の見解1－神とは何か</a>』からです。</p>

<p>尚、次回の更新日は未定です。<br />
分かり次第、お知らせに記載します。</p>]]></description>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">お知らせ</category>
            
            
            <pubDate>Sun, 20 Dec 2009 22:00:44 +0900</pubDate>
        </item>
        
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            <title>所長の見解３－神の特性.2</title>
            <description><![CDATA[<p>ここに来てようやく神の特性が解ってくる。他の宇宙の特性は知り得ないが、少なくとも我々の神は、そしてその神が展開したこの宇宙は、歓喜という特性を持っているのではないだろうか。神は歓喜であり、それが展開した宇宙は歓喜であり、その一部である我々も本質は歓喜だと思われる。我々の苦労や艱難は歓喜のために存在するのであって、単に深い闇の底に沈むためにあるのではないだろう。我々が今歓喜を味わえないでいるとしても、それはいつか花開くだろう歓喜への階梯を、一段一段着実に上っていることを意味しているのではないか。ただし歓喜に至るためには苦難や苦悩や悲しみを限りなく味わわなければならないということではない。</p>

<p>我々はこれまで数え切れないほどの転生を繰り返してきている。そして無数の人生の中で多くのことを経験してきているはずだ。にもかかわらずその輪廻転生のサイクルから抜け出せなかったのは、たった一つの認識が持てなかったからだと考えられる。それは悟りだ。悟りとは理屈としての認識ではなく、心底納得のいく形での認識だ。悟りさえ得られれば我々は誰でも今から歓喜を味わうことができるようになる。ではその悟りについて述べることにしよう。いくつか表現の違いはあるが、みな同じことを意味しているのでその本質を読み取ってほしい。</p>

<p>一つの表現は『全てのものは関係しあって存在していることを理解すること』だ。これは最近よく言われることなので、そんなことは知っているよと言われるかもしれない。しかしこの言葉の意味は何段階かの深さを持っている。もし人が素潜りで20メートル潜ることができたとしたら、そこを深い海と感じるに違いない。もし40メートルも潜れたとしたら、もはやまぎれもない深海と感じるだろう。だが海はさらに深い。何百メートル、何千メートルの深海もある。このように言葉にも深さがある。</p>

<p>全てのものが関係しあって存在しているということは、宇宙が一つの生命体であるということを意味している。人体の全ての部分、全ての細胞が関係し合って活動しているように、宇宙においてもあらゆる星が、あらゆる生命が関係し合って活動している。これを地球や人間に限って言えば、自然を破壊することは自分を破壊することであり、他人を傷つけることは自分を傷つけることを意味する。</p>

<p>ユングは『投影』という言葉を用い、他人に愚かさや欠点を見つけた時、腹立たしさや優越感などを感じるが、実はそれは自分自身を相手に投影して、自分の愚かさや欠点を見ているに過ぎないと言っている。これはユングが深い思索の末に発見したメカニズムだが、しかしもっと深い解釈をすれば、相手も自分もより大きな規模で自分自身なのだから当然ということになる。言い換えれば、相手も自分も宇宙という巨大な生命体の一部なのだから、互いに自分自身を見ているに過ぎないことになる。</p>

<p>地球上では多くの人が相手を非難したり中傷したり罵倒したりしている。国どうしでは戦争という名のもとに公然と殺人が行なわれている。しかしこれも自分自身を傷つけ、自分の一部を抹殺していることにすぎないことになる。我々は右足にとって左足が邪魔になったからといって、左足を切ってしまったりしない。何故なら両方が協力しなければ歩けないのを知っているからだ。これは一方が他方を殺すのではなく、自分にとって悪人と思える人でも協力しつつ生きていかねばならないことを意味している。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/god_after4.jpg" alt="所長の見解３－神の特性.2" class="img_left" />悟りを得るための方法を表わすもう一つの表現は、『私は私は』、『自分が自分が』という我を捨て去ることだ。これができれば多くのことが見えてくる。我々は自分にこだわっている時、自分という色眼鏡を通して物事を見ている。それは自分の好みや自分の判断基準によって見ているという意味だ。したがって白い画用紙を茶色のサングラスをかけて見ているようなもので、決して白くは見えない。しかしサングラスを外してしまえば、すなわち我を取り去ってしまえば、物事は容易に正しく見られる。道元禅師は心を空にして無念無想となれば、全てが正しく心に映ると言っている。これは富士山の麓の湖が波一つ立たなくなれば、富士の姿がそのまま映るというふうに例えられる。少しでも波があれば富士は当然正しく映らない。この波こそが我だということだ。したがって我を離れ、あるいは我を滅却した人は正しく物事を判断し、智恵を得て悟りに至る。逆に我の強い人ほど物事が見えず、判断を誤り、悟りから遠ざかることになる。</p>

<p>とはいえ我を捨てるというのは容易なことではない。それは誰もが感じていることだろう。では我を捨てること以外に悟りへ至る道はないのだろうか。特別な修行によらず、強い意志を持っていなくても悟りを得ることはできないのだろうか。実はもっと容易な道が我々に用意されている。その道とは感謝だ。</p>

<p>左手に怪我をして使えなくなった時、人はどう思うだろうか。ある人は左手が使えないことに苛立ち、腹立たしさを覚えるかもしれない。しかし別の人は今まで左手が使えたのがどんなに便利だったかと左手に感謝するかもしれない。この人たちの中には、右手だけでも使えることにさらに感謝する人がいるかもしれない。</p>

<p>感謝には不思議な力がある。感謝を心がけていると次第に心が穏やかになり、物も人もいとおしくなってくる。その具体的な魔法の言葉は『ありがとう』だ。物に対しても、物事に対しても、生き物に対しても、他の人に対しても、自分に対しても、『ありがとう』ということによって自分が変わり、状況が変わってくる。こう言われても半信半疑の人は自分で実践してみるといい。一ヶ月も経たないうちに自分や自分の周りに変化が現れてくるのに気付くだろう。</p>

<p>心穏やかになると色々なことが冷静に見られるようになり、我を張らなくても生きていけることに気が付く。そしてこれを続けてゆくと知らず知らずに我が弱まってゆき、じきに周りを見れば、我の強い人と我の少ない人が見分けられるようになる。ここまで来るとどんどん智恵がついてゆき、物事の本質やからくりが解るようになる。もちろん相手の中に強い我が見えても、それを非難したりはしなくなる。それをすれば再び自分の我が甦ってくるのが解るからだ。このように感謝の道は我を無理矢理取り除こうとするよりも、はるかに容易な悟りへの道だと言えるだろう。</p>

<p>我々は悟りを得ることによって宇宙の本質である歓喜を味わうことができる。それは歓喜が神の本質であるがゆえに宇宙の本質であり、したがって我々の本質でもあるからだ。最近日本では感謝の道を実践する人が増えてきているように思う。この流れが大きな潮流となり、世界に波及してゆけば、地球は信じられない変化を遂げるに違いない。それは互いを許し、思いやり、助け合い、生かし合う、歓喜に満ちた世界となった地球の姿だろう。</p>]]></description>
            <link>http://mitsuno-y.com/file/200912/20_213946.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">神</category>
            
            
            <pubDate>Sun, 20 Dec 2009 21:39:46 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>所長の見解３－神の特性.1</title>
            <description><![CDATA[<p>神は宇宙そのものであり、我々は神の分身であると述べたが、では全てのものに特性があるように、神にも特性はあるのだろうか。最近いくつもの宇宙が存在すると言われているので、だとすれば神が展開・発展した宇宙にもそれぞれ違った特性が備わっているのだろうか。我々はこの宇宙しか知らないので、この宇宙の特性がどんな特性を持っているのかだけを探っているが、我々の宇宙の特性が必ずしも他の宇宙にも普遍的に当てはまるとは限らないのかもしれない。</p>

<p>現代物理学でも多宇宙論は存在するが、それだけでなく、幽体離脱した人が信じられない数の宇宙を見てきたという報告をしたり、異星人と接触した人たちが他の宇宙のことを教えられたとも報告されている。では無数に宇宙があるとしたら、果たしてそれらは同じ秩序、同じ特性を持っているのだろうか。それとも違う秩序、違う特性を持っているのだろうか。</p>

<p>決定的なことは言えないが、少なくともそれ等の宇宙は全く同じではないだろうことは想像がつく。何故なら全く同じものが存在するなら、その中で展開することも同じことになり、私と同じ人間が何人もそれぞれの宇宙にいることになり、これでは複数の宇宙が存在する意味がなくなってしまうからだ。現代物理学も全く同じ宇宙はないだろうと予測している。全く違うのか少しだけ違うのかは分からないが、とにかくそれぞれが違うのだとしたら、我々の宇宙がどんな特性を持っているのかが問題となる。</p>

<p>我々の宇宙を見る限り、神は自らを展開する前に一定の秩序または法則を決めた可能性が高い。それは神が混沌(カオス)を望まなかったということではなく、神が意識体であり生命体であるために、必然的に宇宙も秩序的になったということではないだろうか。ただしそれは全てが秩序に従い、細部までが法則のもとに展開していくようなものではなかったはずだ。すなわち最初から終わりまで完璧な計画のもとに始まったわけではないはずだ。何故そう言えるのかというと、我々に自由意思があるからだ。</p>

<p>神には自由意思があると一般に考えられている。何故なら神が宇宙を創造したという観点に立てば、自由意思なしにそのようなことはできなかったはずだからだ。だとしたらその分身である我々には当然自由意思が備わっていることになる。これは神が与えたという意味ではなく、神に自由意思がある以上、それが展開した宇宙は自由意志を持っており、その分身である我々も当然自由意思を持っているということだ。</p>

<p>我々に自由意思があるなら、全てが決められたように計画的に世界が展開してゆくわけではないだろう。我々が考え選択することにより、我々の意志と想念によって世界も変わってゆくと考えられる。したがって我々の世界には現に不幸や悲劇があるけれども、それらを作ったのは我々以外の何ものでもないということになるだろう。すなわち人間の不幸や悲劇は、我々の誤った想念や選択の結果だと言えるのではないだろうか。</p>

<p>これを逆さから見れば、不幸や悲劇を作り出した我々が神の分身であるなら、神にも間違いや失敗があり得るかもしれないということになる。果たしてそうなのだろうか。神の間違いによって我々の不幸や悲劇が生まれたと言えるのか。しかしこれにはもう一つ別の見方が可能だ。それは神が描いた最終ゴールに、神の分身である全てのものを導くためには、不幸も悲劇も必要なものとして存在するのかもしれないという考え方だ。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/god_after3.jpg" alt="所長の見解３－神の特性.1" class="img_right" />私が自然を見つめ、周りの人間や自分自身を見つめた限りを言えば、どんな現象も無駄に起きているわけではないと思われる。これは言い方を換えれば偶然は存在しないということになる。もう少し詳しく言うと、生きていることに意味があるという前提に立てば、一つ一つの出来事に意味がなければならなくなる、したがって運がいいまたは悪いという言い方は根拠を失って、全てが必然でなければならなくなる。逆に言えば、人生の出来事の一つでも偶然に起こっているなら、我々の意志やカルマと関係なく人生は展開していることになり、これではどこにも意味を求めようがなくなる。</p>

<p>まずは私自身のことを話してみよう。私は若い頃どうして自分には災いや悩ましいことが付きまとうのだろうと思っていたが、今から考えれば現在のこの自分があるためには、それらすべてが必要だったからそうしたことが起こったのだと感じられる。すなわちそれらは無駄に私に降りかかったのではなく、今のような自分があるためには欠くことのできないものだったからだと思われる。</p>

<p>次に百獣の王と言われるライオンについて考えてみよう。アフリカのサバンナでライオンが草食動物を食べまくって大繁栄するということは起こっていない。実際にそんなことが起こればライオンは食物を失って絶滅するしかなくなるだろう。またライオンのような肉食獣がいなければ、草食動物は大繁栄して草も木も食べ尽くし、それによってこちらの方も絶滅するしかなくなるだろう。しかし自然を見る限りこのようなことは起こっていない。このことは何を意味しているのか。それはそれぞれの生き物には役割があり、様々な生き物によって全体の調和が保たれていることを意味していると思われる。それは自然が無駄を作ることもなく、偶然によって支配されているわけでないことを示しているのではないだろうか。</p>

<p>私の周りには様々な悩みを抱えた多くの人がいる。その中には自分が不幸で悩ましい状況にあるのは運が悪いせいだと思っている人もいる。運が悪いと思うのは、先ほども言ったように、物事は偶然によって起こるという考えが前提にある。こうした人たちは自分の状況を恨むだけでそこから何も学ぼうとしない。したがって往々にして状況はますます悪くなる。しかし中にはそうでない人もいる。自分の不幸や悩みを試練として受け止め、それを乗り越えるために必死に努力している人もいる。彼らは与えられた試練は不幸や不運ではなく、自分を成長させるための機会と捉えて切磋琢磨している。こうした人たちは時間のかかる人もいればかからない人もいるが、その多くは自分の状況を良くしていっている。このように考えれば、不幸や悲劇は我々にとって必要なものとして存在しているのではないかと思われてくる。</p>

<p>だがそれでも人よっては、それは単なる遠回りではないかと言うかもしれない。何故なら様々な悩みや試練にさらされることなく、物事が容易に解って正しい智恵を得ることができれば、それに越したことはないと思われるからだ。しかしここにはもう一つからくりがある。<br />
生まれた家が大金持ちで、多くの人が欲しいと思うものは何でも揃い、何でも手に入るとしたら、その人は一つ一つの家具やテーブルや自分の部屋や食器などに歓び、感謝することができるだろうか。大人になって初めて自分は恵まれているのだと感じ、感謝する人も中にはいるかもしれない。しかし多くの人はそれを当然と思い、単純に優越感に浸るかもしれない。一方で非常に貧しい家に生まれた人は、一枚のセーター、一脚の椅子、一台の電子レンジにも、ようやく手に入れたことの歓びと、長い間待ち望んだことが実現したことへの感謝の気持ちでいっぱいになるのではないだろうか。</p>

<p>すなわち物事は最初から理解できたり、完全な知識を与えられていたりするのではなく、また人間も初めから完成された人格を持って生まれてきたり、苦労もなしに立派な人間になったりするのではなく、長く辛い道を歩んだ結果として得られるところに感激があるのではないだろうか。この道程は歓びを味わうためには欠かせないもので、単に無益な遠回りではなく、最終ゴールが感激に満ちたものであるためには必要不可欠なものではないかと思われる。</p>]]></description>
            <link>http://mitsuno-y.com/file/200912/20_213604.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">神</category>
            
            
            <pubDate>Sun, 20 Dec 2009 21:36:04 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>所長の見解2－超人たちの出現</title>
            <description><![CDATA[<p>有名無名を含め、古来から多くの超人たちが存在した。例を挙げればきりがないが、釈迦、イエス、孔子、親鸞、日蓮等など、彼らにまつわる奇跡のような出来事は枚挙にいとまがない。このような有名な人たちでなくても、無名の超人たちがたくさんいたと思われる。</p>

<p>ある長屋に住んでいた普通のおばあちゃんが、病人が来ると「南無帰命頂礼(なむきみょうちょうらい)」と唱えて痛いところを摩ると、たちまち治ってしまったという話がある。これは戦後間もない頃の話だ。しかしこのおばあちゃん、ある時から病人を治せなくなってしまったという。実はおばあちゃんは読み書きができなかったせいか「なむきみょうちょうだい」と唱えていたのだ。そう言っていた時は病気を治せたのだが、近所の学校を出た若者が「ちょうだい」ではなくて「ちょうらい」ですよと教えところ、その後は病気を治せなくなってしまったという。おそらく「ちょうらい」では違和感があり、さらに若者の間違っているという指摘が自信をなくさせたためにその能力を失ったのだろう。それはそれとして、このような能力を持った人は全国にたくさんいたのではないだろうか。</p>

<p>無名の人は記録に残らないし、口伝としても少しの間は伝えられても、やがて人々の記憶から消え去ってしまったことだろう。歴史に埋もれた多くの無名の超人たちはもはや永久に日の光を浴びることはないに違いない。</p>

<p>ところで超人は現代にもいる。まったく寝ないで普通に生活している人がテレビや雑誌で何人も紹介され、まったく食べないで生きている人も何人も紹介されている。これは科学だけを判断のよりどころとしている人には俄かに信じがたい話だろう。幼稚園でスプーン曲げの授業をしたところ、ほとんどの園児が曲げてしまったと報告している人がいる。速読の教室を開いている人は、訓練しているうちにほとんどの子供が一冊の本を数分で読めるようになり、その中の何人かは、終いには本を開かなくても内容が解るようになったと報告している。医者が治せない患者を、気の流れを正常に戻すことによって数分で治してしまう人もいる。</p>

<p>前世の記憶を持っている人もいる。テレビや雑誌で紹介されたが、インドのある少年は自分は隣村で生まれて事故で死んだが、家族は今もそこに住んでいると言ってきかなかった。そこでマスコミが学者を連れてやって来て検証した結果、事実であることが判明した。これは有名な事例だが、他にも公にされていなものも含めれば前世の記憶を持っている人は数えきれない程いるだろう。ひと頃はマスコミが騒ぎ立て、何冊もの本が出版されていろいろな人が紹介された。</p>

<p>天気予報で雨だと言っても、あるいは実際に雨が降っていても、現地に行けば雨が上がってしまうという人もいる。身の回りにいろいろな物が現れるという人もいる。木彫りの大黒様や観音像が現れたり、忘れてきた物が出現したりなどだ。幽体離脱をして異次元を体験したり、宇宙の真相を垣間見てきたりして、それを本に書いて出版している人もいる。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/god_after2.jpg" alt="所長の見解2－超人たちの出現" class="img_right" />例を挙げればきりがないのでこの辺で止めるが、では一体どうしてこのようなことが現実に起こっているのだろう。一つの説明は、我々が「出来ない起こらない」と思っていることによって出来もしないし起こりもしなくなるということだ。これは我々が学校や家庭で受けた洗脳教育によってそのように限界づけられた観念を持ってしまうことによる。人は幼い時から無数のことを出来ないと教え込まれる。子供にはそれを拒否する術はない。したがって動物と話ができる子供も、そんなことはあり得ないと親に叱られることによって話すことを止めてしまう。欲しいものを現出させることのできる子も、親にどこから持ってきたのと泥棒呼ばわりされると二度とそうしたことはしなくなるだろう。このようにして子供の頭の中に「出来ない起こらない」という枠組みが嵌められてゆく。</p>

<p>大人はそうした枠組みを当然のように思って生きているので、様々な超人を疑いの目で見る。大人たちはまるで枠組みの塊のようで、自分が教え込まれた枠組みの世界から一歩も出ようとしない。しかし上に挙げた様々な超人を素直に見れば、自分の信じる枠組みが果たしてどれほど確かなものか解らなくなるはずだ。一体「出来ない起こらない」という言葉にどれだけの根拠があるのだろう。</p>

<p>私は地球人はあまりにも多くの枠組みにがんじがらめにされているように思う。大人が子供に「そんなことはあり得ない」というように、多くの人は生まれ変わりなどない、宇宙人などいない、UFOなど存在しない、本を開かないで中身が解るはずはない、幽体離脱などあるはずがない、等など際限なく「ないない」を繰り返す。私は地上にこうした枠組みが存在し、多くの人がそれを信じ込んでいる背景には、巨大な何者かの意図を感じざるを得ない。(これについては「闇の支配者」のところで述べることにする)</p>

<p>私は昨今いろいろな分野で覚醒した一種の超人が次々と現れてきているように思う。この人たちは最初は孤立無援の中で声を上げていたようだが、いま徐々に理解者が増えてきてその輪は広がりつつあるように思う。先ほども言った、何もないところからいきなり物を現出させる人や、医者が治せない病気を気によって治してしまう人などはその典型だが、しかしこういう目立つ人だけでなく、覚醒によって物事の本質が見えるようになった人はどんどん増えてきているように思う。こういう人たちは会えば互いにそれと解るので、その輪は徐々に広がりつつあるようだ。</p>

<p>中には低級霊に取り憑かれただけの人もいるようだが、本物の覚醒者は確実に増えていると思う。覚醒する人たちの中には最初は一つのことだけについて(たとえば愛についてだけ)覚醒する場合もある。実態は解らないが、一気に覚醒する人よりもこちらの方が多いように思う。とはいえこういう人たちはその後の努力によって、次々といろいろなことに覚醒していく傾向があるようだ。これら覚醒者たちは今のところ少数を除いて公の場に姿を現していない。何故なら彼らは物欲や金銭欲を持たず、自己顕示欲や名誉欲もよく制御されているからだ。したがって今は簡単にそれと見分けがつかない状況だと思う。</p>

<p>他に超人とまでは言えないものの、霊的な世界に切り込み、これまで科学界が認めなかったものを、新たな機器を開発して証明しようとする技術者が出てきている。彼らは天才というよりは、何者かに導かれて発明に至っているふしがある。それはいわゆる天啓と見ることもできるし、一種の覚醒と見ることもできるだろう。</p>

<p>今科学がもたらした負の遺産に気付いた人たちが、別の科学、あるいは科学に代わる何かを求め始めている。そうした中で現れてきた、精神世界と物質世界を結びつけるだろう新たな技術が、これからますます注目を集めることになると思う。(何のことを言っているのかピンとこない人のために、例として機器の名前だけ挙げておこう：銀河の泉＝蘇生水を作り出す機器：MRA＝物質世界も精神世界も同じ波動として測定できる機器：QES＝言霊をコード化して機械に入れ、その波動をこれから発して生物・物質に良い影響をもたらす機器、など)</p>

<p>私はこれらの超人はもうすぐ時代が変わろうとする現代に、魁(さきがけ)として現れてきた人たちではないかと思っている。少し前までは孤立していたこれらの人たちは、まるでユングの言う共時性(シンクロニシテｲー)のもとに表舞台に現れたかのようだ。これから彼らが互いに手をつなぐことにより、この時代を変える騎手としてその原動力を相乗効果的に高めてゆくのではないかと思っている。</p>]]></description>
            <link>http://mitsuno-y.com/file/200912/20_213237.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">神</category>
            
            
            <pubDate>Sun, 20 Dec 2009 21:32:37 +0900</pubDate>
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        <item>
            <title>所長の見解1－神とは何か</title>
            <description><![CDATA[<p>これまで見てきたように神の概念や解釈はいくつもある。しかし神とは何かと考えるとき、決して神には含まれないものがある。それは異星人だ。彼らがどんなに優れた精神を持ち、どんなに高度なテクノロジーを持とうと神ではない。知的生命がみな神の霊を宿し、それを発現できた人々がいたとしても、やはり神そのものではない。もし最終ゴールが神との合体だとしても、その途上にある生命体はやはり神そのものとは言えない。</p>

<p>ひと頃よりは少なくなったが、現在なお異星人を崇拝する人々がいる。これは多くの出版物による影響もあるが、世界のいろいろな国にそうした人々が集まって宗教的様相を呈している集団もある。我々は精神的技術的に優れた異星人には謙虚に学ぶべきだが、だからと言って神のように崇拝したり祀り上げたりするべきではないと思う。</p>

<p>またこれまで述べてきたように、シュメールの神話やギリシア・ローマ神話に見られる神々も異星人と考えざるを得ない。冷静にそれらを読めば、彼ら異星人の傲慢さと支配欲と人間蔑視の言動の数々に唖然とさせられるだろう。人間に火や智恵をもたらした神は、神々の世界では悪者とされていることがある。ギリシア神話のプロメテウス、聖書の創世記に出てくる蛇、シュメールの粘土板に出てくるエンキなどがそうだ。これは異星人の世界における支配者が、人間が自分たちと同等になるのを不快に思っていた証拠とも言えるだろう。</p>

<p>では異星人ではない神とはどのようなものなのだろう。もちろんエホバやアッラーのような、固有の名を持つ唯一神などではない。唯一絶対の神が二人もいること自体、すでにおかしいのだが、それでさえ地球の宗教においてだけだ。この宇宙には現代物理学が知る限りで2000億×2000億の恒星(太陽)がある。その太陽を回る惑星に知的生命が何パーセント住んでいるかは解らないが、もし1パーセント住んでいるとすれば、20億×20億で、400億の惑星に知的生命体が住んでいることになる。そのそれぞれに唯一絶対の神を主張する宗教が一つか二つあるとしたら、全宇宙にどれだけの唯一絶対の神がいることになるのだろう。</p>

<p>宗教とは他の考えを拒絶することを基本姿勢とする思想だ。したがって信者たちは他の者たちの議論に参加したりしない。彼らは何を言っても聞く耳を持たないし、議論によって自分の考えを発展させたり修正したりする気もない。すなわち彼らは自らの進歩に励まない。ただひたすら教えを記憶し、それに沿って物事を判断しようとするだけだ。</p>

<p>彼らが信じるような唯一絶対の神など存在するはずがないということについて、別のもう少し哲学的な面から説明してみよう。</p>

<p>前にも述べたが、神が宇宙を創ったというなら、いったい神はどこにいて宇宙を創ったのだろうという疑問が湧く。この宇宙の外にいて宇宙を作ったのだろうか。だとしたら神がいたところは宇宙には含まれていないことになる。しかしそこも宇宙に含めなければ宇宙全体とは言えないだろう。こう考えてくると神は宇宙の外側で宇宙を創ったという言い方は矛盾することになる。では神は宇宙の内部で宇宙を創ったのだろうか。だとしたらこれは明らかな矛盾だ。なぜなら宇宙の中にいて宇宙を創ったなら、すでに宇宙があったことになるからだ。</p>

<p>もうひとつ誰もが思う疑問がある。それは神が宇宙を創ったのなら、その神は一体何者が創ったのかという疑問だ。それが誰であれ神を創った存在がいるなら、さらにその神を創った存在はいったい何者が創ったのかという疑問が湧く。さらにさらに神を創った存在を創った存在は何者かということになり、これでは永久に答えが出ない。こうした疑問に対しては、さすがの論理を得意とする欧米人もお手上げとなった。けれども宗教は議論を拒否するという性質そのままに、どうしても神を必要とした欧米人は "God is God." と訳のわからない理屈で自分たちを納得させようとした。</p>

<p>これらとは別に、論理的に矛盾しない唯一の考え方がある。それは一種の汎神論だが、初めに神あるいは霊なるものがいたとしても、それ自体が宇宙だとする考えだ。神なるものが自らを変化させ、展開させたのがこの宇宙だと考えれば矛盾はなくなる。</p>

<p>我々日本人は欧米人のように宇宙を単に物理法則によって動いている機械だとは思わないし、人間の精神も単に脳内の化学反応や電気的反応によって生み出されたものだとも思っていない。我々は心は霊的なものであり、動物も含め生きとし生けるものはみな霊的なものだと感じている。それは理屈ではない。親や子や友人や飼っている犬猫を見て、物理的・化学的・電気的に動いている複雑な機械だとは思っていない。たとえそういう面を認めても、生命はそれ以上の何かだという感覚を我々は持っている。</p>

<p>この地球に生命が溢れている事実は、他の星にも生命が溢れていることの証拠でもあるだろう。それは神が生命であり、その神が宇宙自体なのだから、当然宇宙は生命に満ち溢れていることになる。神が生命であるなら、その神が無機的な宇宙となって展開するはずはない。宇宙全体が、そして宇宙に存在する全てが有機的であり霊的であり意識的なのは、神自身が展開・発展した結果だからだろう。</p>

<p>かつての日本人はこのようなことを感覚的に解っていたと思う。現在残っている数少ないシャーマンもそうした感覚を持っているからこそ、動物とも植物とも話ができるのだろう。日本人は大きな岩や山を拝む習慣を今も持っている。富士山などはその対象の代表例だろう。それは山にも意識があり、あるいは霊を宿すという認識があるからだ。論理一辺倒で塗りつぶされたように見える現代でも、このようになお日本人の心には、そうした霊的意識が受け継がれていると思う。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/god_after1.jpg" alt="所長の見解1－神とは何か" class="img_left" />この神自身が宇宙であるという矛盾のない考えに立てば、いくつかの重要な謎が解けてくる。その一つは我々は何者なのかという古くからの哲学的命題だ。歴史上のどんな哲学もこれについては決定的な答えを導き出せなかった。しかしこの宇宙が神自身であり、その神が展開・発展したものであるなら、我々は神の分身であり、神の分霊だということになる。だとすれば我々は誰しも神の本質を宿していることになり、神のような能力も備えていることになる。すなわち我々は何者かという問いに対しては、我々は神なるものの本質であると言える。そしてその本質とは光であり、愛であり、歓喜だということになる。これについてはもう一度最後のところで説明することにする。</p>

<p>さて超能力という言葉が使われるようになって久しいが、これは別にトリックでもなく、特別に選ばれた人間だけが持っている能力でもない。神の分霊である我々は皆そうした能力を持っているのだが、それを引き出すことのできた人が超能力の持主と言われているだけだ。では具体的にそうした能力を引き出すにはどうしたらいいのだろう。最近何人もの人がそれについて言及しているが、共通して言っていることは無欲の大欲と利他の精神(言い換えれば愛)を持つことだという。</p>

<p>無欲の大欲とは、たとえば自分が実現したいと思っていることがあるとすると、まずその目先の実現したいという欲を捨てることだという。そしていったん捨ててしまったら、次にはもう実現してしまっていると思うこと。すなわち「～したい」という欲に囚われず、もう実現したのだから、その結果に対して感謝の気持ちを持つことだという。ただこの際、欲は微塵も残っていてはいけないと忠告している。</p>

<p>卑近な例だが、Beginner's Luck (ビギナーズ・ラック)ということについて考えてみよう。これはギャンブルで初心者が慣れた人より幸運に恵まれるという意味だが、ではなぜ初心者にツキがまわるのだろう。それは初心者は試しにやってみるだけで、しかも詳しいことは解らないので、やり方やコツを覚えるのに精一杯で欲を出す暇などないからではないだろうか。こうした無欲の勝利は先程の無欲によって実現するという説明とよく符合する。しかし初めは勝っても、だんだん勝てなくなるのがギャンブルの運命のように見える。それはやり方が解ってくるとだんだん欲が出てくるからだと思われる。しかも負けるとさらに欲が出て、取り返したい、勝ちたいという目先の欲に囚われ、多くの人が蟻地獄に落ち込むようにのめり込んでゆくのだろう。</p>

<p>超能力を持つ人たちの多くは、無欲の精神状態を作り出せば誰でも自分のような能力を発揮できると言っている。彼らにとっては超能力などではなく普通の能力で、人間の様々な欲がその発現を阻んでいるに過ぎないという。</p>

<p>我々が神の分身・分霊であるなら、そのような能力は当然備わっているはずで、多くの人はそれを認めようとしないためにそうした能力を発揮できないのだと思う。しかし世の中にはそうした能力をもともと発揮できたり、何かをきっかけに発揮できるようになった人がたくさんいる。次にここ数十年間に現れたそうした人たちについて述べることにしよう。</p>]]></description>
            <link>http://mitsuno-y.com/file/200912/20_213001.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">神</category>
            
            
            <pubDate>Sun, 20 Dec 2009 21:30:01 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>現代の神々.2</title>
            <description><![CDATA[<h3>神話の神々</h3>

<p>神話の神々は何か変だ。それは神々があまりにも人間に似ているからだ。神話の世界に善悪の基準はないものの、神々の喜怒哀楽の表し方は人間そのものかそれ以上に激しく、嫉妬や憎しみなども生のまま顕わにする。彼らは空を飛んだり天界と地上界を行き来したりするが、心や精神は決して人間を超越しているとは思えない。</p>

<p>ゼウスを最高神として展開するギリシア神話では、その内容が人間界の王族や支配者たちの間で繰り広げられるドラマと大差なく、彼らが空を飛んだりしなければ、人間界の直情的な者たちの集団の生き様をそのまま描いたものとして見ることができる。このことは一体何を意味しているのだろう。</p>

<p>他の項でも述べたが、彼らは神などではないということだろう。異星から知的生命体がやって来て、ちょっとした機械や文明の利器を使えば、そうしたものを持っていなかった地球人からすれば、自分たちを超越した神のように見えたに違いない。今もってUFOや異星人を崇拝している人たちがいるのだから、昔も今も事情は大して変わらないだろう。このような視点をもってすれば、神話は深層心理学など持ち出さなくても容易に納得のゆく解釈ができる。</p>

<p>シュメールの粘土板に楔形文字で書かれた記録もこのことを裏付けている。その内容は他の神話のように単なる物語として読むこともできるが、ゼカリア・シッチンの解釈によれば神々はニビルという星から来た異星人以外の何者でもないという。彼らは奴隷を得るために類人猿と自分たちの遺伝子を混ぜ合わせて人間を創り、地球を支配する覇権争いを延々と続け、その戦いの中で核兵器を使い、また意にそぐわない人間どもは町ごと滅ぼしたりしているという。</p>

<p>古代インドの叙事詩『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』には部族間、あるいは神々の戦いが描かれているが、空を自由に飛ぶ船(ヴィマナ)や、魔王や神猿などが出てくるので、これも正体を異星人と解釈すれば発生の由来に納得がいく。ヴィマナは現在我々がUFOと呼んでいるものと同じようなものだろうし、また『リグ・ヴェーダ』に出てくるインドラの雷(いかずち)と呼ばれるものも、正体は現在の核兵器と同じものを意味していると考えれば納得がいく。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/god_before4.jpg" alt="現代の神々.2" class="img_right" />さてこれらのあまり印象の良くない異星人に対して、ホピ(ネイテｲブ・アメリカンの種族のひとつ)の伝承の神々は異星人を思わせる面がありながらも印象は悪くない。ただしホピの神々は高次元霊の可能性もあるので、一概に異星人だと言い切ることはできない。</p>

<p>このホピの神話に出てくる神々は天地・人間を創造し、これを祝福している。そして人間が楽しく幸せに暮らすことが神々にとって歓びなのだと言っている。しかし人間が自分のことばかりを考え、目先の欲に囚われるようになると、地上のすべてのものを一掃して、やり直しをさせている。神は自分よりも他の人のことを思って生きる純粋な人間だけを地下世界の蟻族にかくまわせ、新しい世界ができたときに地上に出したという。</p>

<p>ホピの伝承によると、このやり直しは過去に三回あったという。すなわち一回目の世界は火によって滅び、二回目の世界は氷によって滅び、三回目の世界は水によって滅びたという。我々のこの世は四回目の世界ということになる。しかしこの世界も、人々が自分のことばかり考えるようになったので、じきに滅ぼされるのだそうだ。その際の災いは過去に滅びた際のすべての災害が一度にやってくるという。</p>

<p>ホピについてもう一言付け加えておけば、次のやり直しの際はホピの多くの人々も生き残らないだろうと言っている。それはホピ族の大半が今や誤った文明(欧米文化のこと)に染まり、誤った宗教(キリスト教のこと)に洗脳されてしまったからだという。そして他の世界中の国の人たちもほとんど生き残ることはないという。しかしその中で日本人だけは、彼らと共通の何かを持っているらしく、他の国の人々に比べると多くの人が生き残るようだ。</p>

<p><br />
<h3>日本神話の神々</h3></p>

<p>日本神話の神々は様々な解釈が可能だ。ホピの神々にも似ているが、異星人とも高次元霊とも汎神論的な自然霊とも解釈できる。記紀神話(古事記及び日本書紀のこと)に最初に現れる天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、次に現れる高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)、その次に現れる神産巣日神(カミムスヒノカミ)についていくつか解釈してみよう。</p>

<p>一つは宇宙創世の成り行きを示すものとして、天御中主神が宇宙そのものとして現れ、高御産巣日神が銀河として、神産巣日神が太陽系(すなわち恒星)として現れたとの解釈。これは宇宙が生まれる様子を物理的に表現したものとも取れるし、宇宙自体が神と同一であり神そのものであるという汎神論的記述として解釈することもできる。</p>

<p>もう一つは天御中主神が宇宙を生んだ最高霊であり、高御産巣日神が高い次元の世界を生み出した高級霊であり、神産巣日神がその下に多くの神々(すなわち世界)を生み出した霊という解釈だ。この三柱の次に国常立尊(クニトコタチノミコト)が現れ、地上の世界を創った。国常立尊から七代目が伊耶那岐尊(イザナギノミコト)、伊耶那美尊(イザナミノミコト)だ。この夫婦神の結びつき (結婚または性的合体)によって国生みが行われる。国生みとは日本の島々が次々と生み出されてゆくことで、この二柱の働きによって日本列島が生まれる。</p>

<p>伊耶那岐と伊耶那美はまた神々も生んでいる。この二柱は様々な神を生んでゆくが伊耶那美が火の神を生んだとき火傷を負って黄泉の国へ行ってしまう。その後は伊耶那岐独りで多くの神々を発生させている。この辺の成り行きを読んでいると、どこまでが物理的な国で、どこからが霊的な神なのかよく解らなくなる。しかしひょっとしたら物理的なものと霊的なものという分け方は人間の誤った基準によるもので、それらは実は同じ本質的な現象の別の現れ方を示しているのかもしれないとも思う。</p>

<p>さて多くの神が生まれた後、天照大神(アマテラスオオミカミ)が現れ、瓊々杵尊(ニニギノミコト)と木花之開耶姫(コノハナサクヤヒメ)を経て神武天皇が現れる。これが天皇としての第一代目とされる。神武天皇から十六代目が仁徳天皇であり、三十八代目が天智天皇(中大兄皇子)であり、百二十五代目が今上天皇(きんじょうてんのう=今の天皇＝平成天皇)とされる。</p>

<p>これらは確定した事実とはいえないものの、神から人間へと変わってゆく様子を示している。これは古代シュメールの粘土板に記された、異星人の支配から人の支配へと移ってゆく過程とよく似ている。ニビル星人イナンナ(女神)がアッカド王と褥(しとね)を共にすることによって王の権威を与えた経緯は、おそらく一代目の神武天皇も行なったであろう儀式と同じものと推測される。何故なら日本の天皇の即位の儀式である大嘗祭(だいじょうさい)で、新天皇が天照大神と一夜を共にする儀式を行なってきたからだ。</p>

<p>昭和天皇が崩御されて皇太子が天皇に即位するとき、大嘗祭の内容が報道されると世界中があっと驚いた。それは人間が神と褥を共にすることによって支配者のお墨付きを得るという古代の儀式が、今も日本に残されているのが判ったからだ。この儀式は古代ではあちこちに存在していたが、未だに行われているのは世界広しといえども見当たらない。それがアマゾンやニューギニアの土着少数民族の間ではなく、先進国の、しかも経済大国の日本で行なわれていたことに世界が仰天したのだ。今まで謎に包まれていた大嘗祭が少しだけその内容が公開されることにより、世界が改めて日本の不思議を痛感したのだった。</p>

<p>このように日本の神話は異星人の関与も推測させる内容を含んでいる。</p>]]></description>
            <link>http://mitsuno-y.com/file/200911/09_220202.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">神</category>
            
            
            <pubDate>Mon, 09 Nov 2009 22:02:02 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>現代の神々.1</title>
            <description><![CDATA[<h3>異星人としての神</h3>

<p>私もUFOと呼ばれるものを何度か見たことはあるが、現在多くのマスコミや一般の人がUFOをカメラやビデオに収め、それがテレビで放映されている。FUOがどこから来ているのかは別として、いまやその存在自体を疑う人は少なくなったのではないかと思う。しかし実はUFOは古代から現在まで常に目撃されていて、様々な記録が残され、絵画やイラストとしても残されている。</p>

<p>多くのUFOに関する情報をテレビやインターネットで得られるようになった現在、神とは異星人のことだと考える人が出てきた。ただひと頃は異星人を神のように崇める人たちも多くいたが、最近ではアメリカ映画の影響もあってか、異星人にも悪人がいると思う人が増え、以前ほどの熱狂ぶりはなくなったように思う。</p>

<p>古代の人々は人工的な飛行物体など見たことはなかったから、目の前に宙を舞う物体が飛んで来れば、当然一種の生き物だと思っただろう。その生き物の中から、見たこともない人間風の生命体が出てくれば、空から来たのだから神も同然ということになっただろう。これは別に古代人が我々現代人より劣っているという意味ではない。彼らは我々がすでに失った、物や自然に対する独特の感覚を持っていただけなのだと思う。すなわち全てのものに生命を感じる能力を持っていたのだろうと思う。民話の「浦島太郎」に出てくる亀と乙姫は、こうしたことを示唆していると思われる。また聖書のエゼキエル書の記述からは、神が乗る明らかに人工的な飛行物体を、エゼキエルが何とか生き物として描写しようとしている様子が伝わってくる。古代インドの「マハーバーラタ」やメソポタミアの粘土板の記録にも、こうしたことをうかがわせる多くの記述がある。</p>

<p>現在はもう少し複雑で、異星人と会った人たち、または異星人と交信した人たちが宇宙の成り立ちや神の概念について説明を受け、それをこれこそ真理だとして様々な本に書いて出版している。しかしこれらの真偽を見極めるのは非常に難しい状況にある。読者はこれといって検証する方法もないので、鵜呑みにしてしまうことも多いと思われる。我々にできることといえば、徹底的に読みあさって比較検討することくらいだが、一般の人にそれほど時間があるわけでもないし、またそこまで突き詰めて調べる努力をする人も少ないだろうと思う。</p>

<p>私の感想を言えば、多くのものは穿った説明がされているが、よく読むと大抵の場合「何か変」だと感じる箇所がある。また様々な出版物を比較検討すると、ある一つのことについてそれぞれ違う説明をしていることも多い。たとえば人類がどのように生まれたかについては、異星人が自分たちの遺伝子と地球の類人猿の遺伝子を掛け合わせてホモサピエンスを創造したというもの、高い次元の生命体が次元降下して三次元で受肉したというもの、異星の犯罪者が地球に島流しにされて住み着き地球人になったというもの、限りなく進化した生命体が自分たちに仕える下僕として創造したというものなど、様々な説明がある。</p>

<p>こうした異なった説明は人類の誕生に関してだけではない。地球の成り立ち、宇宙の成り立ち、神の存在、進化の様相、次元の構造、空間の性質など、あらゆる分野にわたっている。このため調べれば調べるほど一体何が本当か解らなくなる。</p>

<p>したがってある人は、一ヶ所でも変だと思ったら信用に値しないという判断基準を提示した。これはある程度有効だと私も思う。よく解らないのと変だと思うのは違うからだ。それに現実の物事の判断というのは、数学的・論理的な正誤判断のように単純なものではないため、最終的には自分の感性に頼るしかない。常に偏りを避けるように心がけながらものを読み、意見を聞き、その後はその内容が魂に訴えるものであるかどうかを感知するしかない。一見この方やり方は頼りないものに見えるかもしれないが、そうではないと私は思う。経験上、魂に訴えるものに常に注意を向け、それを感知していれば、人はそれほど道を踏み外すことはないからだ。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/god_before3.jpg" alt="現代の神々.1" class="img_left" />最後にこのことについての私の考えを述べておこう。異星人は我々と同じ知的生命が進化したものだと思う。その進化の段階は様々で、我々と技術的に数百年しか離れていない生命体もいれば、はるか数千万年も進んでいて我々の想像の及ばない段階に達している生命体もいると思われる。しかしいずれにせよ彼らは単なる知的生命体であり、いかに優れていようと我々を超越した神ではない。何故なら先ほども言ったように、神とは宇宙そのものだからだ。厳密にいえば我々は宇宙の一部であり、神なるものの分霊なのだから、そういう意味では我々は神であるといっても言えないことはない。しかし我々の多くはその神性を魂に埋め込んだまま見出せないでいるのが現状だ。</p>

<p>現代の覚醒した人たちも歴史上の覚醒した人たちも、自分が神だとは言っていない。みな神性と通じ合い、自分は生かされ、知恵を授けられたのだとしか言っていない。すなわち彼らも、神の分霊ではあるが神そのものではないという認識を持ち、あるいは持っていたということだ。こうしたことを考えれば、地球人であれ宇宙人であれ自分が神だと言い張る者に対しては、いくら真理を語っているように思えても決して鵜呑みにしてはならないだろう。もう少し言えば、自分には何々の神が宿った、自分は何々の神の生まれ変わりだ、自分は何々という異星人と交信しているといった類の人々も注意が必要だろう。</p>

<p>人によってはそれでも中には本物はいるのではないかと考える人もいるだろう。私はそうした意見にどうこう言うつもりはない。実際スピリチュアルの書物の中にも変だと感じるところが見当たらないものもあるのだから。</p>

<p><br />
<h3>高次元霊としての神</h3></p>

<p>現在の物理学界では十次元理論が主流となっている。しかしそれは宇宙誕生の時に一瞬だけ存在したもので、すぐにそのうちの六次元は畳まれ、四次元だけが残ったというものだ。四次元というのは我々のこの世界のことで、説明するとゼロ次元が点、一次元が線、二次元が平面、三次元が立体、これに時間の一次元を加えたものが四次元のこの世界ということになる。</p>

<p>スピリチュアル系統の書物には五次元から七次元までの話がよく出てくる。中には十二次元の話まで出てくるものもある。しかし次元についての説明や、その構造や性質についての説明はほとんどされていない。</p>

<p>では少し次元の話をしよう。原物質探求の旅は数千年にわたって続いてきたが、ついにその正体は突き止められなかった。近年になって「超ひも理論」が登場し、一時脚光を浴びたが、この理論にも欠陥があることが解って、興奮は一気に冷めた。私は物質の正体は一次元的なひもや物としての塊ではなく、波動だと思っているので、その周波数の高い低いが次元を形成するのではないかと推測している。</p>

<p>不確定性原理から導き出された量子論では、すべての物質は粒子であると同時に波動であると説いている。粒子は一点に固着したものであり、波動は波紋のように広がる性質を持つ。これは全く正反対の性質だが、量子論では理論上矛盾しないのだと言っている。</p>

<p>我々が知っているもので代表的な波は光だ。実は光は一連の波のほんの一部で、現代科学の知り得る限りを周波数の低いものから高いものへ順に並べると次のようになる。</p>

<p>電波→　マイクロ波→　テラヘルツ波→　赤外線→　可視光線→　紫外線→　X線→　ガンマ線だ。ではガンマ線より周波数の高いものは発見できないのだろうか、あるいは存在しないのだろうか。他の項でも述べたが、私はそれ以上周波数が上がると、実際にはあってもこの次元を超えて捉えられなくなるのではないかと思っている。それが五次元で、さらに上がるともうひとつ次元を超えて六次元、さらに上がると七次元というふうになるのではないかと思う。</p>

<p>電波とガンマ線では交信できないように、高い次元にある生命体と我々は交信できない。もし交信しようとすれば、いくつかの中間の生命体を通じてするしかない。したがって手続きが複雑になるだろう。また直接交信しようとすれば、その交信は我々にとって非常に微弱なものとなるに違いない。「ひふみ神示」には高い次元の霊が宿るときは、本人にも周りにもそれと解らない状態で宿るのだと書かれている。逆に低級霊はこの世との次元が紙一重なので、姿を現わしたり音を立てたりすることも可能なのだと言っている。</p>

<p>このように我々より少しだけ次元が高い(半次元だけ高いこともあり得る)霊が我々に干渉することはよくあるようで、一般に言われる狐憑きなどはその代表だろう。しかしそうした低級霊が時には様々な神の名や異星人の名を騙(かた)って人を惑わすこともあるという。したがって我々は審神(さにわ)によっていかなる霊、いかなる神かを見極める必要がある。</p>

<p>高次元霊は波動の周波数においては我々より高いが、必ずしも他の面においても優れているとは限らない。高次元で且つ優れた霊から見れば、低級霊の仕業は子供だまし程度のものだろう。低級霊は肉体が滅びた後、様々な執着を持った者が行くいわゆる幽界に存在しており、本来行くべき霊界にいるわけではない。そうした霊の言葉や合図を、我々を超越した神などと思うのは大きな誤りだろう。</p>

<p>私は高次元霊が我々と隔絶した神だとは思わない。彼らは我々が魂の進化を成し遂げた末の姿であり、我々が歩むべき道筋の延長上に存在するいわば先輩なのだと思う。この固定された時間と空間に閉じ込められた我々は、生まれ変わりながら様々な体験をし、様々な命の形態と考え方と感性の在り方を知り、酸いも甘いも噛み分け、善悪こもごもを知りつくし、その上で「我」を取り除くことによって初めて高い次元に進化できるのだと思う。その道のりの一歩一歩が我々の日々の生活なのだと思う。</p>]]></description>
            <link>http://mitsuno-y.com/file/200911/09_220102.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">神</category>
            
            
            <pubDate>Mon, 09 Nov 2009 22:01:02 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>汎神論の神</title>
            <description><![CDATA[<p>汎神論とは一言で言うと、神は全てのものに宿り、くまなくいたる所に存在するという考えだ。これに属するのはインドのウパニシャッド思想、古代ギリシアのソクラテス以前の思想、近代ではスピノザ、ゲーテ、シェリングの思想などだ。これらは一見多神論に似ているようにも見えるので、学問的には分類が曖昧になることがある。しかし私は多神論と汎神論は本質的に違うものだと思っている。何故なら複数の神々が存在するのと、神性が宇宙のいたる所に遍在する(偏在ではない)のとでは根本的に異なるからだ。</p>

<p>あえて言えば汎神論は一神論の方に似ていると思う。それは唯一の神がいて、その神が遍在していると考えることができるからだ。ただしこの場合はエホバやアッラーのような固有の名を持つ唯一神とは違う。遍在するという特性からいって、その神は一種の法則のようなものと解釈されるべきだからだ。</p>

<p>「意識」の項の「意識の所在」のところで詳しく述べたが、唯一の神がいて、その神がこの宇宙を創ったという表現は矛盾を含んでいる。少し長いが以下にその文章を引用しよう。</p>

<p><span class="blue">『さて最初の意識体は神で、神が宇宙を創造したと想定してみよう。すると神が宇宙を創造したとしても、神自身が宇宙の外側にいて宇宙を造ることはできなかったはずだ。何故なら宇宙に外側があるなら、そこも宇宙に含めなければ宇宙全体とはならないからだ。したがって神はこの宇宙内で宇宙を創造したことになる。するとここにも矛盾が出てくる。宇宙内、すなわち宇宙の内部にいるということは、神以前にすでに宇宙があったことになるからだ。わかりやすく言うと「私は海の中にいる」といった場合、先に海があってその中に入ったことを意味するからであり、先に私がいて海が後でやってきたわけではないからだ。</span></p>

<p><span class="blue">このように考えてくると神は宇宙の外にも内にもいなかったことになってしまう。しかし問題解決の道はある。それは神がこの宇宙そのものであると考えることだ。すべては神であり、宇宙のどこをとっても神の一部分であり、したがって我々も神の一部である、と考えればいいのだ。</span></p>

<p><span class="blue">神は意識をもって自らを展開してきたのがこの宇宙であり、したがってすべての存在は意識的であり、我々も意識的な存在である。これは神とは意識そのものだということを意味している。神は意識であり、その意識体が宇宙として自らを展開し、我々もその一部として意識を持っている。しかも宇宙は神自身なので、その中にあるすべてのものは有機的に結びついている。したがって我々はこの宇宙のすべての存在と細かな網のように結びついており、あらゆるものと感応することが可能であり、あらゆることを知り得る。</span></p>

<p><span class="blue">これは言い方を換えれば、神は霊であり、我々は神の分霊であり、すべての存在には霊が宿り、しかもこの霊とは意識そのものである、ということになる。』</span></p>

<p>(※神が意識的存在であることについては「<a href="http://mitsuno-y.com/file/category/cat13.php">意識</a>」の項の最初に書かれているのでそちらをご覧いただきたい。)</p>

<p>ニューギニアの山岳地帯やアマゾンの奥地に住む少数民族は、長い間欧米人の価値基準によって未開人というレッテルを貼られてきた。彼らの中のシャーマンは動物はもちろん、植物とも話ができる。そうでなければ何百何千種という薬草の効用につて確かめられるはずはないだろう。ヨーロッパではかつて動物などと話をしようものなら、すぐに魔女や魔男として捉えられ、火刑にされた。近年では、あるいは今でも、インテリと呼ばれる人も含めて多くの人がシャーマンは幻想を見、幻聴を聞いているのだと言っている。</p>

<p>我々日本人は原住民と呼ばれる人たちをそれほど軽蔑的に見ないが、それでも理解を示す人は少ないと思う。しかし日本人の心の底には全てのものに神聖な霊が宿るという感覚があるはずだ。今は欧米文化に洗脳されて、そんなことを感じようともしない人も増えているように見えるが、僅か50年前までは、そうしたことを当たり前のように感じていた多くの年配者がいた。それは単に自然物に限らず、櫛には櫛の、茶碗には茶碗の霊が宿ると考え、物を大切に扱っていた。</p>

<p>現在は物が溢れ、多くの人が物に感謝することがなくなり、本来日本人が持っていた物に対する感謝の心は僅か50年で失われてしまったように思う。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/god_before2.jpg" alt="汎神論の神" class="img_right" />汎神論とは神の霊が普遍的に存在し、あらゆるものに宿るとする考えだ。古来より日本人はそうした感覚を持ち、営々と子から孫へと引き継いできた。近年それが完全に失われたかのように思われていたが、ごく最近、そうした感覚を再び持つようになった若者が増えているように思う。これは驚くべき変化だ。もちろんそうではない若者も圧倒的多いが、私は今二極分解が進んでいるのではないかと思っている。本来の日本人の感覚を取り戻そうとする者と、ますます欧米の物質的感覚にのめり込む者とにだ。</p>

<p>私は日本人こそが、この汎神論的感覚を世界へ向けて発信すべきではないかと思っている。世界中が金と物質崇拝に染まり、歪んでしまった現在の世界に、全てのものに神の霊が宿るという感覚をもって訴えられるのは、経済大国と称される国に住む我々日本人しかいないと思う。</p>

<p>欧米を支配してきた一神論や多神論に、私はいろいろな疑問を持つとともに、それが生まれた背景に何か胡散臭さを感じてきた。そして汎神論のある解釈が、うまく宇宙の本質を説明できることに気が付いた。しかしそれを結論する前に、まずは一神論や多神論が何故、どのように生まれたのかを知らなければならないだろう。次にそれらの説明を含めながら、現代の新たな神々の概念について話を進めていこう。</p>]]></description>
            <link>http://mitsuno-y.com/file/200911/09_215511.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">神</category>
            
            
            <pubDate>Mon, 09 Nov 2009 21:55:11 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>多神教の神</title>
            <description><![CDATA[<p>インドのヒンドｳ―教、古代エジプトやメソポタミアの神話、古代ギリシア・ローマ神話が多神教の代表的なものだが、これに日本の神道(しんとう)、メソアメリカやアンデスの神話も分類の仕方によっては含むこともある。中国の道教は一般には多神教に分類されるが、私はエジプトやメソポタミア、またギリシア・ローマの神話とも少し性質は違うと思っている。</p>

<p>多神教は主神を中心に様々な性格を持つ多くの神によって構成される。その伝承は歴史上の支配者によって改竄(かいざん)や粉飾が多少行なわれてきたと思われるが、奇妙なのはそれ等の神話がどのように発生したかについては未だに解らないことだ。いわゆる宗教の場合は文化的な背景があって開祖が教えを説くところから始まる。仏教、キリスト教、イスラム教などがこれだ。しかし古代エジプトやメソポタミアの神話、ギリシア・ローマ神話などがどのように発生したのかは全く解っていない。一時深層心理学的な解釈がもてはやされ、多くの文化人や学者が競って深遠な解釈を披露したものだが、結果的にいくつもの解釈が登場しただけで、発生の真相を解き明かすには至らなかった。</p>

<p>多神教では主神が全世界、あるいは宇宙の支配者であり、その下にそれぞれに個性と役割を持つ神々がいる。たとえば酒の神、多産の神、豊饒の神、戦いの神、知恵の神など、神話や宗教によって多少の違いはあるものの、その多くは共通している。多神教は民間信仰的な神々も含めれば、その種類は数えきれないものとなる。</p>

<p>多神教では多くの神々がいるが大抵は孤立した神ではなく、主神の妻神であったり、その夫婦神の子供であったり、孫であったり、兄弟であったりという、人間世界と変わらない関係を持つことが多い。またこれらの神々は時に喜怒哀楽を顕わにし、生死をかけて戦うこともある。これらのことを見ると何故こんなにも人間臭いのかと疑問に思ってしまう。こうしたことから、先ほども言ったように深層心理学的に、神話は人間の感情の原型を表現したものだという説も現れた。</p>

<p>ただし神話の世界には我々の世界にあるような善悪の基準は存在しない。彼らは妬んだり恨んだり時には殺したりするが、決して善悪の判断を持ち込まない。ここに大きな疑問が生まれる。神々があまりに人間的なのにもかかわらず、その世界に善悪の基準がないのはどうしてなのか。そこにはどんな理由があり、どんなからくりがあるのか。後で述べるが、それはある一つの背景を想定することで説明がつく。</p>]]></description>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">神</category>
            
            
            <pubDate>Mon, 09 Nov 2009 21:52:15 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>一神教の神</title>
            <description><![CDATA[<p>一神教はユダヤ教、キリスト教、イスラム教に共通のもので、その概念はただ一人の、しかも固有の名を持つ神がこの全宇宙を創り、全ての生き物を造ったというものだ。</p>

<p>ユダヤ教が生まれた当時、世界のどこにも一神教は存在しなかったと言っていい。多神教が一般的だった西アジア(中東)で起こったこの一神教は、当時の情勢から見ても、歴史的に見ても、非常に稀有な宗教だと言えるだろう。しかもこの宗教の神はユダヤ人と契約を結んだ民族特有の神で、そういう意味では神話的なのだが、かといって神話のような多神教ではない。このようにユダヤ教は奇異な特徴を持っているのだが、それはもしかしたら特別な理由があって、他の宗教とは違う経緯を辿って生まれたからなのかもしれない。</p>

<p>それから千年以上も経って、ユダヤ民族のこの神がイエスによって人類全体の神にまで高められようとした。イエスが育ったのはユダヤ教の環境であり、聖書によれば当時パリサイ派とサドカイ派という宗派が存在したことになっているが、近年死海文書が発見されたことにより、エッセネ派という宗派も存在したことが分かり、イエスはこの派閥に属していたことが明らかになった。</p>

<p>私の感想を言えば、イエスはユダヤ教という民族宗教を普遍的な教えに、すなわち世界宗教に改編しようとしたわけだから、イエスの教えを引き継いだ者たちは、イエスがユダヤ教の一宗派に属していたという事実は不都と考えたのではないかと思う。イエスが生きていた当時はもちろん彼がエッセネ派に属していたというのは周知の事実だったろうが、歴史のある時点で世界制覇の野望を持つ者がキリスト教の最高指導者になった時、何らかの手段を用いてその事実を抹消したのだろうと思う。</p>

<p>しかしそれはそれとして、イエスが当時のユダヤ教の司祭たちを激しく批判したのは事実で、イエスを神に祭り上げた人々はこれをもってイエスを新しい宗教の開祖だとしたのではないだろうか。実際はイエスはユダヤ教そのものを否定したわけではなく、儀式に捉われ、本来の教えを忘れた当時の宗教界を糾弾したに過ぎないと思う。それというのも彼は説話の中で旧約聖書を頻繁に引用しているからで、またその神・エホバもきちんと認め崇拝しているからだ。そういう意味では彼は真に新しい宗教の開祖とは言えないのではないかと思う。</p>

<p>イエスは（現代にも存在する超人のように）奇跡を起こせたわけだから、弟子たちが集まり信奉者が増えるにつれて、後戻りできなくなった可能性もある。もしそうであれば彼は単なる改革者のつもりが、成り行きで教祖的存在になってしまったとも考えられる。とはいえ彼はこの宇宙の成り立ちや人間の本質について一定の悟りを得ていたのは確かで、彼なりのやり方で必死に自分が得た認識を伝えようとしている様子が聖書から窺える。</p>

<p>私はイエスの言葉は人間社会の分析や宗教的研究から生まれたものではなく、彼の内的洞察から生まれたものだと思う。そうした微妙な内容のため、その言葉の意味するところが正確に伝えられたのはイエスの死後わずか数十年ではなかったかと思っている。おそらく使徒の中でリーダー的存在だったペテロの死後には、すでにイエスの思いは伝わらなくなっていたのではないかと思う。その後聖堂(教会)が建てられた時点では、もはや形式や儀式にとらわれた人たちが権力の座に就いていたはずなので、イエスの思いはほとんど失われていただろうと思う。それ以来2000年近くもの間、形骸化した教えが何億人、何十億人もの人々を支配するために用いられてきたと思うとぞっとする。強大な現世的権力を持つ教皇がヨーロッパからアジア、中南米、アフリカへと勢力を拡大し、世界制覇への道をひた走る事態になったが、私はそうしたことをはたしてイエスは望んでいただろうかと思う。</p>

<p>イエスの没後およそ600年経ってアラビア半島にムハマンド(マホメット)が現れ、イスラム教を開いた。しかしこれも真に新しい宗教かどうかは疑問だ。コーランの内容は多くの点で聖書とそっくりで、しかもモーゼを預言者として認め、モーゼ五書も聖典として認めている。にもかかわらず別の名を持つ唯一神を主張しているのは、私にはとても奇妙なことに思えわれる。それでもイスラム教では、ムハマンドは地上に現れた最高で最後の預言者だとされている。</p>

<p>ユダヤ教もキリスト教もエホバという唯一の神を信奉している。イスラム教も同じく唯一の神を信奉しているが、その名はアッラーという別の名前を持つ。普通に考えれば、これには一体どういうことかと疑念を抱かざるを得ない。果たして名前が違うだけで同じ神なのか。それとも唯一絶対の神が二人いらっしゃるのか。門外漢からすれば何たる矛盾かと思う。</p>

<p>同じ名前の同じ神を崇めながら、ユダヤ教徒とキリスト教徒は必ずしも仲は良くない。さらにこの二方とイスラム教徒は同じ聖典を持ちながら非常に中が悪い。愛と施しを説くこの三つの宗教が千年も二千年もの間、いがみ合い、殺し合いをしてきたのだから、いったいそれらの教えは何だったのかと思わざるを得ない。</p>

<p>ここで宗教(信仰)というものについて一言付け加えておこう。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/god_before1.jpg" alt="一神教の神" class="img_left" />「信教の自由」という言葉があるがこれは一体どういう意味だろうか。普通、考えや思想はお互いに議論するなかで是正され、高められてゆくものだろう。ところが宗教となると議論し互いを高めるどころか、一方的に押し付け、信じるか信じないかを迫るだけなのが古来からのやり方だ。しかも現在はそれが「信教の自由」という言葉で守られているのはどう考えても納得がいかない。世界中に何十万、何百万という宗教・宗派があり、しかも互いに否定し合っている現実がありながら、それらを法的に守っているというのはどういうことなのか。あるべきなのは「思想の自由」であって「信教の自由」ではないと思う。</p>

<p>日本だけで五万の宗教法人があると言われているが、これらの団体は納税を免除されている。自分たちが勝手に信じていることを、単に他人を洗脳することでお金をかき集め、そして自らは納税もせずに法的に守られているというのはどういうことなのだろう。互いに議論し合ったり切磋琢磨もしない集団が、その凝り固まった考えを是認され、批判されることもないというのが果たしてまともな状態なのだろうか。「宗教」という看板を掲げるだけで、すべての批判から社会的に守られるという今の状態が到底正常だとは私には思えない。</p>

<p>もし「宗教」という看板を剥ぎ取ってしまえば、単なる偏屈で凝り固まった思想を持った集団、あるいは狂信的な思想集団と看做されても仕方ないだろう。少なくとも一般の人々が社会の中で揉まれながら、それぞれ自分の考えを持とうと努力しているのと比べると公平ではない。では誰がどんな理由で宗教を特別扱いし、保護するような策を講じたのだろうか。後に述べるがそこには当然訳があり、策を講じるに至った背景もある。</p>]]></description>
            <link>http://mitsuno-y.com/file/200911/09_215130.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">神</category>
            
            
            <pubDate>Mon, 09 Nov 2009 21:51:30 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>概念</title>
            <description><![CDATA[<p>一般に神の概念は学問的に三つに分けられる。一神論と多神論と汎神論だ。とはいってもこれは大雑把に分類しただけで、しかも神の由来や神そのものについて説明したものではない。最近は既存の宗教と関わりない人たちが神について色々な発言をするようになり、それらの書物も出版されて、新しい神の概念も登場している。</p>

<p>また何千年という間、宇宙の成り立ちに関する説明は神話や宗教に委(ゆだ)ねられてきた。近年になって科学的見方が優勢になったため、ビッグ・バン理論や定常宇宙論などの仮説(これらは定説ではない)が多くの人を魅了したが、最近はこれらの理論にもいくつか欠陥があるのが明らかとなって、その威信は徐々に失われつつあるようにだ。ひょっとしたら科学による説明は、ルネッサンス以降のわずか数百年で終わりを告げるのではないかとも思う。</p>

<p>科学的な説明にほころびが出始めた頃、時を同じくして宗教とも科学とも違った宇宙創世の考え方が現れてきた。それらの中には作為的で胡散臭いものもあるが、中には現代科学の範疇を超えてはいるものの、見える世界と見えない世界を含めた綜合的な視点を持った大変説得力のあるものもある。</p>

<p>ここではとりあえず学問的な解説から始め、新しい発想を紹介しながら、私の考えも交えて話を進めていくことにする。</p>]]></description>
            <link>http://mitsuno-y.com/file/200911/09_214342.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">神</category>
            
            
            <pubDate>Mon, 09 Nov 2009 21:43:42 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>ソーシャル・ビジネス.2</title>
            <description><![CDATA[<h3>日本の現実</h3>

<p>バングラデシュにおけるユヌス氏のソーシャル・ビジネスの展開を見てきたが、では我々はこの日本でどのようなことができるだろうか。最貧国に属するバングラデシュでの事業をそのまま日本に持って来ても通用するとは思えない。だが日本でも新たな貧困が生まれつつある。一生懸命働いても生きてゆくぎりぎりの生活から抜け出せないワーキング・プアと呼ばれる人たち。また職場から職場へと浮草のように社会を彷徨(さまよ)う派遣社員。彼らも生活の不安から抜け出せない精神的な意味も含めた一種の貧困層だろう。</p>

<p>このような先進国の貧困は、ある意味で後進国のそれよりも問題の根は深い。それは後進国の貧困は不正な取引や賄賂を断ち、多くの事業を起こすことによって解決は可能だが、先進国の貧困は経済社会の構造の歪みに原因があるため、それを是正するのは新たに作り出すより難しい面がある。それには人が革新的な要素よりも保守的な要素をより強く持っているという理由もある。</p>

<p>先進国の現実を見ればまた別の無視できない問題もある。それは指導者が未だに市場原理主義という幻想にしがみついていることだ。市場原理主義とは一言で言えば、自由競争によって需給のバランスが取られ、健全な経済活動が行われるというものだ。しかし実際には定期的なインフレや株の暴落、失業や賃金格差などいくつもの問題が噴出してきたのも歴史が語る事実だ。このことが示唆しているのは、単に市場を奪い合い、利潤を追求するだけでは経済活動は健全に保たれないということだ。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/social_02.jpg" alt="ソーシャル・ビジネス.2" class="img_right" />問題は他にもある。金融資本のだぶついたお金がマネー・ゲームに使われている。金融資本とは銀行と大企業が互いに株を持ち合い、より多くのお金を運用しやすくしたものだ。これによって物作りではなく、金によって金を得ようとするマネー・ゲームが始まった。先物取引などはその典型だが、もはや実体経済を離れたところで、一国を丸ごと買い取れるほどの巨額の金が電子マネーとして世界中を駆け巡っている。</p>

<p>私の素直な感想を言えば、これは本来の経済活動とは程遠い、経済に名を借りたギャンブルに過ぎないと思う。アメリカのある大手証券会社ではノーベル賞を受賞した経済学者を二人も三人も雇いながら、暴落を予測できずに多額の損失を出したこともある。所詮ギャンブルはギャンブルにすぎないということだろう。これは日本のヤクザや欧米のマフィアが株式会社を装って悪行を働いているのと大して変りはない。エリートを象徴する高級スーツに身を包んだ証券マンが毎日ギャンブルにうつつを抜かしていると言っても大して間違いではない。</p>

<p>こういう言い方をすると顰蹙(ひんしゅく)を買いそうなので付け加えておくが、私は株取引や証券市場が良くないと言っているわけではない。それは資本主義経済を支える重要な役割を果たしているのも事実だからだ。しかしそれはあくまで脇役としての役割であり、決して主役になってはならないものだと思う。ユヌス氏が言うように、単に金によって金を生み出そうとするゲームが資本主義経済を歪ませているからだ。この歪みを是正する一つの発想がソーシャル・ビジネスだと彼は言っている。</p>

<p>日本の現実についてもう一つ指摘したいのはコマーシャルの弊害だ。テレビでは一日に膨大な数のコマーシャルが流されている。その中の多くは誇張、嘘、脅迫といった傾向を帯びている。常にこうしたコマーシャルを見せつけられている人たちには深刻な影響が出ている。大人たちが品のない脅迫に満ちたコマーシャルに次第に洗脳されているだけではない。一日中テレビを点けっぱなしにしている家庭では子供たちが深刻な影響を受けている。彼らは無意識のうちに大人は嘘つきであり、世の中は多少の嘘や脅迫や誇張は許されるのだと思うようになっている。しかも普通のコマーシャルは15秒置きに次々と変わるため、物事に集中できない落ち着きのない子供が育っている可能性がある。</p>

<p>コマーシャルは大抵の場合注意して見ているわけではない。そのため製作者はどうにか注意を惹こうとなりふり構わず下品で不快で誇張されたものも平気で流す。ところが最初は注意を向ける視聴者も、やがては飽きて注意を向けなくなる。するとさらに刺激の強いものを製作者は追求するようになる。こうして今や節度も品性も真実味もないコマーシャルが氾濫してしまった。</p>

<p>我々が認識しなければならないのは無意識というものの性質だ。意識は受け入れることもできるし拒否することもできる。すなわち取捨選択が可能だが、無意識は拒否というカードを持ち合わせていない。これが一般に心理学の説明するところだ。すなわち無意識は何一つ拒否できず全てを受け入れてしまうという性質を持つ。取捨選択なしで入って来たものは心の底に溜まり、やがてそれは意識の表面に現われてくる。しかしその時はもはや制御が利かない状態になっている。今の若者たちの下品で落ち着きのない態度は、彼らが子供から大人になる時に、無意識に蓄積されていたものが意識を占領することによって表面に現れたのだと推測できる。</p>

<p>こうした歪んだコマーシャルが歪んだ子供たちを生み出し、やがて社会に出て歪んだ競争原理の中で歪んだ競争を戦うようになる。当然人間関係も歪んだものとなるだろう。このような言い方は極端だと思うかも知れないが、赤ん坊や子供を観察すれば分かるように、彼らは大人よりもずっと敏感であり影響を受けやすいからだ。テレビと共に育った世代が今や三世代目に入り、世相が大きく変わったのはテレビの影響、特にコマーシャルの影響と関係があるように思われてならない。</p>

<p><br />
<h3>我々に何ができるか</h3></p>

<p>ここでは実際にソーシャル・ビジネスを始める場合の留意点と効果について話しておきたいと思う。</p>

<p>物事を始める場合、実現できるかどうかは別として、きちんとした最終目標を描いておくことが必要だと思う。それは例えば遠足にしても徒競争にしても、目的の場所がどこか分からなければ道を踏み外した時に本筋に戻れなくなるからだ。目標がはっきりしていれば道筋からはずれても修正が利く。これは重要なことだ。坊さんになろうと思わない人が坊さんになることはないだろう。医者になろうと思わない人が医者になることもないだろう。人は右に行こうと思って右に行くのであって、左に行こうと思って右に行く人はいないだろう。このように最終目標を明確にしておくのは、それがいかに非現実的なものだったとしても重要だと思う。</p>

<p>もう一つは今現在何ができるかを考えることだ。ゼロから始めようとする際、まず何ができるかを考えるだろう。しかしどうしてもしなければならないとう強迫的な観念に捉われるとうまくいかない。そうではなくて、何かできるかも知れないし何もできないかも知れないというところから始めるのがいいと思う。今できる範囲で考え、まず今できることから始めるのだ。</p>

<p>物事を行なうには、このように常に最終目標と、今できることとを同時に見つめながら進めるのがいいと思う。</p>

<p>ムハマド・ユヌス氏はソーシャル・ビジネスについては、その基本的姿勢を述べるだけで具体的なことはほとんど言っていない。彼の目指す最終目標は貧困をこの地上からなくすことだが、具体的な話は彼がバングラデシュで実際にやってきたことに止めている。彼はその国、その文化に合ったやり方で、柔軟に進めるべきだと考えているようだ。そこで以下には、これからソーシャル・ビジネスを始めようとする人たちに参考にしてもらうため、私の考えていることを少し述べてみたいと思う。</p>

<p>私の最終目標は三つの目標が抱き合わせになったもので成り立っている。その三つとはソーシャル・ビジネスとスロー・ライフと幼児教育だ。</p>

<p>これまで主にソーシャル・ビジネスについて述べてきたが、それだけでは住みよい社会は作れない。仕事の上では極限までの利益と究極の効率を求める会社の在り方が多くの人を肉体的、精神的限界にまで追いやってきた。たとえソーシャル・ビジネスが世の中に普及しても、生活のスタイルが変わらなければ真のゆとりのある生活は実現しないだろう。我々はソーシャル・ビジネスを実践しながら、もっとゆっくりした人生を歩む必要があると思う。</p>

<p>これは地域に根差した生活スタイルが基本となる。イメージだけを言えば、地域で取れた食材で、時間と愛情をかけた料理を作り、家族で、または地域の人が持ち寄って食を楽しみながら、お喋りでコミュニケーションを図る。この場合、食材の梱包代や輸送費がかからず、農協に献上するお金も省くことができる。これまで行政が地域活性のために税金を使って、美術館や劇場や図書館を建て、大型店舗を誘致したり、第三セクターでテーマ・パークなどを作ったりしてきたが、成功した例はまずない。それは地域の伝統文化を無視し、地域住民の意思を反映しなかったからに他ならない。我々は現在の都会にはびこる気狂いじみた忙しい生活を止め、地域に根差した『ゆっくり人生』を実現するために行動を起こさなければならないと思う。</p>

<p>さてソーシャル・ビジネスとスロー・ライフが実現したとしても、人間そのものが変わらなければ世の中は変わらないだろうと思う。そこで重要になって来るのが三番目の教育だ。しかし大人を教育しても変わるのは難しいだろうから、問題は子供の教育となる。人間の基本的な態度や意識の在り方は6歳くらいまでに決まると言われているので、特に幼児期の教育が重要となるだろう。</p>

<p>横峯式の幼児教育では、すべての幼児が6歳までに高度な集中力、運動能力、精神的強さ、思いやりなどを身に付けることができるという。これは実は日本に伝統的にあった教育法で、横峯氏がそれを蘇らせ、実践した結果だろうと思う。こうした教育が現実に日本全国で行なわれれば、それは夢物語ではなく、本当に日本は一世代で急激に変わるに違いないと私は思う。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/social_03.jpg" alt="ソーシャル・ビジネス.2" class="img_left" />このソーシャル・ビジネスとスロー・ライフと幼児教育が残らず実現した世界が、私の目指す最終世界だ。この目標達成のためには、まずソーシャル・ビジネスの概念を基本として、地域に根差したスロー・ライフに向かい、そして地域住民と結び付いた幼児教育の改革を進めていくのがいいと思う。</p>

<p>ムハマド・ユヌス氏が始めた貧困撲滅への行動は、ソーシャル・ビジネスを通して実現しつつある。彼の最終目標は、貧困が博物かでしか見れなくなる世界を作ることだという。その博物館の第一号は、世界で最後に貧困が無くなった地に建てられるだろうと彼は言っている。我々もソーシャル・ビジネスとスロー・ライフと幼児教育という夢に向かって歩き出したいものだ。ユヌス氏の言うように、我々が決意すれば、それは単なる夢ではなく、現実のものとなるに違いないのだから。</p>

<p><br />
<h3>展望</h3></p>

<p>ソーシャル・ビジネスを日本で根付かせるのは一見不可能に思えるかも知れない。ビジネスを起こそうとする場合、多くの人はどう利益を上げるかを考える。また資金や不動産の確保にも頭を悩ます。しかしこうした目先の損得に捉われる限り、良いビジネスの設計はできない。</p>

<p>私には二つの希望がある。一つは自己の利益のみを求めるのではない場合、多くのことが客観的に見えるということ。これはビジネスを設計する際に有効に働くと思う。もう一つはユヌス氏が言うように『人間には他の人のために良い行ないをしたいという本能的な願望がある』ということ。彼は人間の暗部に目を向けるよりも、この人間の善的な面に目を向けている。『このことは既存のビジネスでは完全に無視されてきた人間性の性向の一つだ』とも彼は言っている。人が単に利益を得るためにビジネスを行なったり、単に給料を得るために働くのではなく、他の人々や社会に役立つために行動するのであれば、それはその人にとって当然有意義なものとなり、生活全体の充実感へと結び付いてゆくと思う。ソーシャル・ビジネスはこうした理由の故に人々を惹きつける、とユヌス氏は言っている。</p>

<p>ソーシャル・ビジネスを行なうに当たって、我々は多くの人に、また多くの既存の企業に参加と協力を呼び掛けることもできる。もはや誰がお山の大将になるかなどを競う社会は崩壊しつつあるのだから、それぞれが自分の役割をわきまえた上で協力し合うことが肝要だ。自分だけの利益を求める商概念からいったん離れてしまえば、こうしたことは可能に違いない。</p>

<p>ソーシャル・ビジネスは既存の企業と戦うのではなく、逆に資金や技術の援助を求め、NPOやNGOとも手を結び、地方の役所や国の行政にも援助を呼び掛け、協力と強調の中で様々な分野に拡大していくべきだろう。それによって一流のセンスと一流の技術をもって、一流の商品とサービスを安い値段で社会に提供していけるだろう。</p>

<p>最後に強調しておきたいことがあるが、我々はこうしたソーシャル・ビジネスの活動を通じて、巨万の富の無意味さを社会に示すことができるということだ。また正当な利益の分配が、どれほど不安のない生活を人々にもたらすかも示すことができるということだ。</p>

<p>私が目指す最終目標のようなものは、今まで誰も信じないことによって実現することはなかった。誰かがいつの日かするかも知れないという漠然とした思いが実現を阻んできた。今我々にある選択肢は二つだ。今日この場で世の中を変えるために行動を起こすか、それとも「いつか、誰かが」という逃げ口上によって永久に何もしないかだ。資本主義経済社会が崩壊の瀬戸際にある今、我々はただ成り行きを見守っているだけでいいのだろうか。何か少しでも、何か一つでもできることがあるのではないだろうか。</p>

<p>もし「自分になど何もできない」という信仰を捨て、自らの行動によって世の中は変わるのだという信念を持てば、世の中は本当に変わると私は信じている。</p>]]></description>
            <link>http://mitsuno-y.com/file/200909/23_113153.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">資本主義と社会主義</category>
            
            
            <pubDate>Wed, 23 Sep 2009 11:31:53 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>ソーシャル・ビジネス.1</title>
            <description><![CDATA[<h3>発想の経緯</h3>

<p>ムハマド・ユヌス氏は2006年、ノーベル平和賞を受賞した。新しい資本主義の形態を編み出し、それを実践した功績が認められての受賞だった。本来なら経済学賞を受けるべきではなかったかと言う人もいるが、ノーベル財団の平和賞の選択には大きな理由があった。</p>

<p>ユヌス氏は、地上に存在する困難な問題の多くはその原因が貧困にあると見て、貧困撲滅という壮大なテーマに取り組んできた。彼には、人類が持ち続けてきた「貧困はなくならない」という信仰にも似た観念は、幻想に過ぎないとの思いがあった。彼は自らの体験によってその信念に辿り着いたのだ。</p>

<p>バングラデシュに生まれたユヌス氏はアメリカで博士号を取得し、その後ミドルテネシー大学などで助教授として教鞭をとったが、1972年バングラデシュ独立の直後に祖国に戻り、チッタゴン大学の経済学部長に就任した。彼は大学の近くのジョブラ村の人々と接するうちに、多くの貧しい人々がなぜ貧困から抜け出せないかを知るようになった。実際の例を挙げて説明しよう。</p>

<p>大学の近隣の多くの村人(主に婦人たち)は、椅子や籠を作って売るための材料費がないために金を借りようとした。しかし一般の銀行はほんのわずかな金額でも、貧しい人々は信用できないといって相手にしなかった。畢竟(ひっきょう)彼女たちは高利貸しに手を出すことになった。しかし一旦高利貸しに手を出した彼女たちは、どんなに努力しても貧困から抜け出せなくなった。それは金利が年率100％から200％もするからであり、さらに出来上がった商品は金貸しの言い値で安く買い取られ、利益はほとんど残らないからだった。言い値で買い取るのが高利貸しの条件だったからだ。</p>

<p>こうした不公正な取引のために、彼らは蟻地獄に落ちたように貧困から抜け出せなくなり、奴隷のような生活の中で、必死に働き続けなければならない状況に陥った。こうしてある女性などは、目を見張るような美しく使い勝手の良い椅子を一日中土間で作り続け、しかも彼女の手元に残るのは一日にわずか2セントということになった。彼女の夫も日雇い労働者として一日中働いて、やはりその収入は数セントに過ぎない状況だった。</p>

<p>ある時ユヌス氏は全く返金など期待せずに27ドルのお金を42世帯の村人に貸した。聞き取り調査をして彼らを借金地獄から解放しようとしたのだ。ユヌス氏にとってのポケットマネーは村人に大きな興奮を巻き起こした。永久に抜け出せないと思っていた極貧の生活から、もしかしたら抜け出せるかも知れないという希望が彼らにもたらされたからだ。その結果は素晴らしいものだった。一般の銀行に信用されなかった彼らの返済率はほぼ100%に達したのだ。27ドルから始まったユヌス氏の善意は、その後グラミン銀行という新たな事業へと発展してゆく。</p>

<p>このような話は日本人には信じられないかも知れないが、しかし現実には世界の人口の約半分(35億人)が一日当たり2ドル以下のお金で生活しており、さらにその中の10億人は一日1ドル以下で生活している。もっと言えば世界の総所得の94%は28億人の懐に入り、残りの6％の所得を42億人が分け合って暮さねばならない状況にあるのだ。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/social_01.jpg" alt="ソーシャル・ビジネス.1" class="img_right" />では一体貧困は誰の責任なのだろうか。多くの人々はこれまで貧困は本人の怠惰のせいだという感想を持ってきた。だがそれは真実ではない、とユヌス氏は言う。先の例のように多くの貧しい人々はどんな努力をしても貧困から抜け出せない罠にはめられているからだ。これはバングラデシュに限ったことではない。日本のワーキング・プアと呼ばれる人たちも同じような状況にあり、また多くの一般庶民も裕福とは言えない暮らしを余儀なくされているが、それは人々が継続的搾取の餌食となっているからだ。貧困の本当の理由は当人の怠惰などではなく、利益の不平等な分配と、そうした平等ではない分配を生みだしている資本主義経済体制の構造そのものにある。</p>

<p>ムハマド・ユヌス氏は現在普通に見られる資本主義経済の欠陥に気付き、それに代わる新しいシステムを考え出して実践した。彼はまず貧しい人たちのための銀行を設立し、少額の融資をそうした人々に限定して行なった。これが多くの貧し人を貧困から救い出すという結果となった。</p>

<p><br />
<h3>挑戦</h3></p>

<p>ユヌス氏が貧しい人に少額の融資を行なうために設立した銀行はグラミン銀行と呼ばれている。グラミンとは村または田舎という意味だ。彼のこの挑戦は貧しい人々の共感を得て急成長し、多くの人がその融資によって借金地獄から抜け出した。グラミン銀行の調査では、融資を得た人々の6割が五年から六年の間に貧困から脱出しているという。</p>

<p>次の展開はユヌス氏にとって意外なものだった。フランスを本拠地とする多国籍企業ダノンがソーシャル・ビジネスに協力したいと申し出てきたのだ。ダノンの本業はヨーグルトの製造販売であり、ユヌス氏はバングラデシュの栄養不足の子供たちに、安く、おいしく、栄養価の高いヨーグルトを提供しようと考えた。ダノンは市場調査から味の研究、栄養価の向上まで、あらゆる協力を惜しまなかった。社名はグラミン・ダノンと決まった。</p>

<p>販売員はグラミン銀行の借り手である婦人たちが雇われ、研修を経て正式の販売員となった。彼女たちは地域住民であり、最高の宣伝塔ともなった。これによって広告宣伝費が削減できた。ヨーグルト一個についていくらという利益があるため、販売員は骨身を惜しまず普及に努め、今日もバングラデシュで広まりつつある。</p>

<p>グラミン・ダノンは冷蔵庫のないバングラデシュの状況を考え、小規模の工場を各地に作るという方法を取った。これによって流通費用も削減できた。また容器も環境に優しい生物分解性の素材を用いた。ユヌス氏はさらに今、食べられる容器の開発に意欲を燃やしている。</p>

<p><br />
<h3>ソーシャル・ビジネスの仕組み</h3></p>

<p>ソーシャル・ビジネスは、出資者に対しては元本のみを返済し、株の配当や利子などの支払は一切行なわないというものだ。また元本を返済した後に発生する利益は社会還元することを旨とする。社会還元の仕方は色々あるが、例えば株を貧しい人に買ってもらい、配当を受け取ってもらうというやり方、発生した利益をさらに別のソーシャル・ビジネスのために使うというやり方などだ。支部を作って事業を拡大することや、異業種に参入する道もある。</p>

<p>ソーシャル・ビジネスにおいても会社の所有権は株主に帰属するが、出資時の取り決めにより、株はいつでもソーシャル・ビジネスの代表者（経営者）に譲渡されることを条件とする。これは出資金の返済が容易に行われるためであり、また株主によってソーシャル・ビジネスの目的が左右されないためである。</p>

<p>ソーシャル・ビジネスは出資金のみにこだわるのではなく、寄付金も受け取る。それによって経営が潤い、新たなビジネスを起こすこともできるからだ。寄付金や援助金によって活動するNPOやNGOからその一部を出資してもらい、長期返済するという方法もあり、また一般の人から少額の出資を募るという方法もある。</p>

<p>ソーシャル・ビジネスは協同組合に見られるような支配層を作らず、無限大の利益の追求に暴走しないという明確な意識が、出発の時点から必要だ。適正な利益は得るが社会還元が目的であり、生物や環境に優しい商品を追求し、さらに広告・輸送・販売の経費を抑えて価格に反映することにより、健全な経済システムを構築するという意志を持たなければならない。</p>

<p>この条件を満たすために、ソーシャル・ビジネスは事前の入念な設計が必要となる。その設計が成功の鍵を握るのは言うまでもない。そのため様々な分野の人々に参加してもらい、多くの意見を出してもらい、十全の準備をしなければならない。しかも現実世界は常に変化し、社会構造や人々の趣向も変わってくるので、常時設計を見直し改善する柔軟な姿勢が求められる。</p>

<p><br />
<h3>批判</h3></p>

<p>社会のシステムやこれまでの概念を変えようとする人に対しては批判が付きものだ。ユヌス氏に対しても当然批判はある。その一つはグラミン銀行の金利に対するものだ。もともと金利は20％であり、一部にはそれ以上との話もある。グラミン銀行は現在もその利率を変えていないという。これは我々先進国の常識から見れば法外な金利に思われるだろう。確かにそうした批判には一理ある。しかし後進国や発展途上国におけるインフレや、一夜にして物価が倍になったりなどの経済的不安定性を考えれば、どれだけの金利が適切かはにわかに判断し難いと思う。欧米先進国の尺度で、こうした国の事情を抜きに判断するのは一方的という感じはぬぐえない。</p>

<p>またグラミン銀行は貸し出しの際、5人一組の連帯責任を条件としている。欧米人の感覚からすればこれも批判の対象になる。しかし個人主義とは違う文化的背景を持つ東洋人の感覚からすれば、一概に馬鹿げた制度とは言えない。心を重ねる文化を持つ東洋の社会は、独立した個人を単位とする欧米社会とは基本的に違うからだ。東洋の良さは唯一絶対の神など必要としない、しっかりした縦横の人間関係によって成り立っていることにある。実はこの隣組のような制度は欧米の法律で言う連帯保証を意味するわけでもない。いかにも東洋的だが、単なる助け合い、あるいは励まし合いを促すようなものだ。このような意味合いは欧米人には到底理解しがたいものだろうが、日本に鎌倉時代から戦後まで存在した無尽(むじん)なども、そうした東洋的文化背景から生まれたものだと思う。</p>

<p>いくつか問題はあるにせよ、現在の資本主義経済の欠点に比べれば、ユヌス氏のしようとしていることはそれを補って余りあるものがあると私は思う。彼の目標は単なる利益の追求ではなく、この欠陥だらけの資本主義経済体制を改善し、貧困を撲滅するという遠大なものなのだ。そこを見逃して欠点のみをあげつらうのもどうかと思う。</p>]]></description>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">資本主義と社会主義</category>
            
            
            <pubDate>Wed, 23 Sep 2009 11:19:29 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>資本主義と社会主義.2</title>
            <description><![CDATA[<h3>社会主義経済の問題点</h3>

<p>産業革命以来、農村で生活できなくなった人々が職を求めて都市に集まるようになり、その多くが工場労働者となった。これはイギリスから始まってヨーロッパに広がり、さらに全世界へと広がった現象だ。</p>

<p>社会主義運動が都市労働者の間で始まって以来実際に革命が起きるまで、世界の支配者層は本当に社会主義革命が起きるとは微塵も思っていなかった。日本政府は当時不快な思いを抱いていたロシアに対し、その皇帝を懲らしめてやろうと、レーニン率いるボルシェビイキに当時のお金で100万円という大金を渡している。こうした行動に出たのも、革命など決して起こるはずはないとの思いがあったからだ。ヨーロッパの各国の指導者も同じ思いを抱いていた。ところがあにはからんや、実際にロシアで革命が起こってしまった。</p>

<p>ロシア革命の後、中国でも社会主義革命が成功し、その後キューバから中南米へと革命運動は広がって行き、世界各国へと波及していった。しかし社会主義や共産主義もその出発時点から様々な問題を抱えていた。一つは革命が武力によって行われたこともあって、権力闘争も武力的なものとなったことだ。ロシアでは革命以前からボルシェビイキ、メンシェビイキ、アナーキストなどの勢力があったが、権力闘争の段階で多くのメンシェビイキやアナーキストが処刑されている。</p>

<p>またボルシェビイキが権力を握った後、レーニンの後継者争いが起こり、ボルシェビイキ内で世界革命を唱えるトロツキーと、一国革命を主張するスターリンの間で権力闘争が起こり、敗れたトロツキーは国外追放となって、亡命先のメキシコで暗殺されている。革命の英雄レーニンはスターリンには権力を譲ってはならないと言っていたそうだが、そのスターリンは仲間からの粛清を恐れて自らいち早く仲間を逮捕し、その全員を処刑した。スターリンの容赦ない粛清は有名で、革命を戦った仲間たちを処刑しただけでなく、さらに国内の134万人以上の人々を逮捕し、68万人以上を処刑し、63万人以上を収容所送りにした。</p>

<p>このように革命の理想はその出発点から血塗られたものとなった。彼らはブルジョアジーと呼ばれる支配階級から労働者を開放したのは事実だが、いったん権力を握ると恐怖政治と変わらない支配を行なった。このようなことはロシアにとどまらず、社会主義革命を起こした全ての国で行なわれたと予想されている。</p>

<p>唯一南米のチリで、民主的な選挙によって社会主義政権が誕生したが、指導者となったアジェンデはピノチェト率いる軍部のクーデターによって暗殺された。これはアメリカ政府がCIAに画策を依頼して行なったことだと解っていて、アジェンデ大統領もCIAのスナイパー（狙撃手）に殺されたというのがもっぱらの噂だ。ピノチェトは権力を握ると労働組合指導者、芸術家、学生など、左翼とみられるのもたちの多くを監禁し、拷問し、殺害した。遺族たちは現在も彼らの遺体を返すよう要求しているが、その行方は杳(よう)として知れないという。</p>

<p>武力革命を遂行すれば後に武力による権力闘争が起き、民主的な選挙による革命を遂行すれば軍部のクーデターの憂き目にあう。これが歴史の語る事実だ。</p>

<p>社会主義運動は私有財産を持たず、全ての人が能力に応じて働き、富を平等に分けるという理想のもとに始まった。しかしソビエト連邦の70年に及ぶ歴史を見る限り、これらのどれも実現したとは言えない。経済の停滞のため小規模な私有財産を持つことを認め、能力のない者が不相応な地位に就き、富も平等には分配されたとは言い難い。</p>

<p>社会主義の小国では後継者選びに関する問題も抱えてきた。ソビエトや中国などの大国は別として、キューバや北朝鮮などでは後継者は指導者の子供や同族に引き継がれることが多く、すべての国民に指導者となる機会が与えられるわけではない。社会主義国家の方が資本主義国家よりも民主的になるという当初の理想は、結局は単なる理想で終わりを告げた。</p>

<p>また大国であるソビエトや中国は近隣の国を侵略し、併合するか、でなければ傀儡(かいらい)政権を打ち立てて属国のように扱ったのが歴史の事実だ。チベットやバルト三国はこの代表的な例と言えるだろう。革命という名のもとに社会主義大国は、決して民主的とは言えない方法で数々の国を植民地同然にしてきた。これらのことは人間の権力に対する執着と、大国の小国に対する傲慢さを如実に表わしている。</p>

<p><br />
<h4>所長の見解</h4></p>

<p>ソビエト連邦が崩壊した時、ある人たちは資本主義の勝利だと言い、また他の多くの人たちは資本主義が間違っていなかったとの漠然とした印象を抱いた。しかし本当にそうだっただろうか。私は社会主義の理想は今も依然として人類の理想に違いないと思っている。なぜならごく限られた人間が100回生まれ変わっても使いきれないほどの富を持つ一方で、10円20円の値段の差で悩む買い物をしなければならない多くの人がおり、最貧国では一日数十円で家族全員が暮さねばならない人々がいるのが世界の現実だからだ。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/money.jpg" alt="資本主義と社会主義.2" class="img_right" />現在の資本主義経済体制では巨万の富を得た人は儲け過ぎだと言われるどころか、逆に勝利者として崇められる傾向にある。一方で貧しい人たちは能力がないか、でなければ怠惰のために貧しいのだと思われる傾向がある。私にはこうしたことは狂気の沙汰だと思わざるを得ない。なぜなら多くの人は生まれた家が自分の能力をきちんと評価して伸ばしてくれる環境ではなかったり、学校教育がやる気を起こさせる動機づけもせずにたくさんの劣等生を生み出すようなシステムの中で行なわれていたり、充実感を感じられる適切な職場で働くことができなかったりするために能力を発揮できないでいると思うからだ。実は貧困は本人の責任などではないのだ。</p>

<p>我々はこの不条理をはっきりと認識しなければならないと思う。ほんのわずかな稀有な人が貧困から身を起こし、一生かかっても使いきれないほどの富を手に入れて神話となることがある。しかし全ての人がそうなり得るだろうか。一握りの勝者が賞賛され、多くの敗者が屈辱と忍従の生活を強いられる今の社会が果たして健全な社会と言えるだろうか。我々はこの勝ち負けという馬鹿げたゲームから離脱しなければならないと思う。そして共生と協力の社会を構築しなければならないと思う。多くの人は今日の気違いじみた競争と効率一辺倒の経済社会に実はうんざりしているのではないだろうか。実際多くの人が発狂し始めているように私には思われる。</p>

<p>全世界の人々が、今ゆっくり生きる道を選択しなければこの世界は間もなく崩壊するだろう。勝ち負け・競争を離れた、協調と助け合いのSlow Life（スローライフ）こそ、この世を救う道ではないだろうか。そのことに気付き始めた多くの人が、今世界を変えようと行動を起こし始めている。これまで人類がひた走って来た道のりに矛盾を感じた人たちが、色々な仕方でそれぞれ自分たちの革命を起こそうとしている。そうした様々な試みがある中で、ここではとりあえずソーシャル・ビジネスという新しい資本主義の発想を紹介することにしよう。</p>]]></description>
            <link>http://mitsuno-y.com/file/200909/23_111523.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">資本主義と社会主義</category>
            
            
            <pubDate>Wed, 23 Sep 2009 11:15:23 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>資本主義と社会主義.1</title>
            <description><![CDATA[<h3>資本主義経済と社会主義経済の特徴</h3>

<p>資本主義は資金を提供する資本家と、その資金を元に製品またサービスを設計・製造し利益を得る企業家と、その現場の仕事に従事する労働者によって成り立っている。企業は自由競争によって市場を奪い合うため、より質の高い商品やサービスを供給するよう強いられ、健全な経済活動が行われるとされる。また商品やサービスは供給過剰になると売れ残るため、生産調整が行なわれ、自動的に需要とのバランスが取られるとされる。これを市場原理と呼んでいる。</p>

<p>一方社会主義経済は土地も会社も個人のものではなく、国や組合の所有のもとに管理され、商品開発から生産、販売まで、国の計画のもとに行われる。このため社会主義経済は計画経済とも呼ばれる。農業に関しては旧ソビエトでは集団農場（コルホーズやソホーズ）が組合や国の管理のもとで運営され、給料は組合または国から支給された。</p>

<p><br />
<h3>資本主義経済の問題点</h3></p>

<p>資本主義経済は初期の段階ですでに様々な問題を抱えていた。産業革命が1760年代に始まったイギリスでは、地方の地主であったジェントリと呼ばれる階層が工場を持ち、労働者を長時間働かせた。やがて紡績工業が盛んになると、一般労働者よりもよりも低い賃金で雇える婦女子を信じられない条件で働かせた。</p>

<p>1832年のイギリス児童労働調査委員会の報告書には次のような児童労働の実態が報告されている。要点だけ挙げると次のようになる。</p>

<p>・6週間に渡って、少女たちが朝3時から夜10時ないしは10時半まで働かされた。<br />
・5分でも遅刻すると、賃金を4分の1がカットされた。<br />
・事故で指を無くした少女もいたが、その段階で賃金の支払いが停止された。</p>

<p>この少女たちとは10代前半の子供たちだ。一般の大人も13時間から18時間も働かされた職場がほとんどだった。見かねたある有力者が労働時間の短縮を提案したが、資本家、企業家、マスコミの猛反対に合った。とはいえこの時の提案された労働時間はそれでも12時間だった。</p>

<p>資本主義は自由競争の中で生産調整がなされるとされるが、全体の生産量が見えないため、たまたま他のところで生産していないものを生産した時には高値で売れるが、多くのところで生産していた場合は原価を割る暴落の憂き目に合う。これは現在でも頻繁に起こっている。</p>

<p>例えば農家では前年玉葱に高値が付いたため、翌年多くの農家が玉葱を生産する。すると供給過剰になって値段が落ちる。出荷すればするほど梱包代や運賃で赤字になるため、膨大な量の玉葱が野晒しにされるということが実際に起こっている。また工場ではある製品の売れ行きが好調なため、設備投資をして生産ラインを増やす。すると途端に売れ行きが止まり、投資金が回収できずに終わるということも起こっている。</p>

<p>こうした現象は経済学者にとっては単なる数字の推移に過ぎず、こうした過程を経て生産調整がなされるのだと他人ごとのように言うが、現場の生産者はたまったものではないだろう。</p>

<p>資本主義経済は常時インフレやデフレの脅威にさらされている。銀行の貸出しや政府による貨幣の供給量、輸出入による貨幣の流通量、賃金と物価のバランスなど、様々な要因によってインフレやデフレが起きる。政府や専門家の諮問会議などで議論はされるが、事が起こってからの話し合いになるため、対策が常に後手に回ることとなる。</p>

<p>金融資本（銀行資本と企業資本が一体となったのも）が経済の中枢を牛耳る今日の状況においては、物造りやサービスから離れた巨額の金が、国際舞台で株や様々な産物の売買や先物取引などで金が金を生むマネー・ゲームを行ない、一国の命運を左右するまでになっている。例えば比較的小さい国にファンド・マネーが大量に注ぎこまれ、その時点でその国は活況を呈するが、しかし買い込んだ株や金融商品が値上がりすると一斉に売り抜け、ファンド・マネーが引き揚げるため、その国の経済は壊滅的な打撃を受けることがある。こうしたことは歴史上何度かあり、現在もほぼすべての国がこうした危険にさらされている。</p>

<p>このようなことが起こる理由の一つは、多くの国が様々な法律で国内市場に規制をかけているにもかかわらず、国際舞台では何のルールもないためだと言われている。これは例えれば自転車が主流の交通手段の国に、突然大型トレーラーがやってきて好きなように走り回る状況に似ている。嵐が過ぎ去った後では、国じゅうの自転車がめちゃくちゃに壊され、作りかけの道路やビルがそのまま放置される事態となる。</p>

<p>資本主義では最大の利益を求めるのが当然とされ、この数十年その傾向はますます強まっている。このため仕事を持つ全ての人たちが超多忙な状況に置かれ、ゆっくりと食事を取る余裕も趣味を楽しむ余裕もなく、本を読んだり自分を見つめる時間もない日々を送っている。イタリアの田舎町で始まったスロー・フード運動の宣言文には、現況を憂う次のような文言がある。</p>

<p><span class="blue"><strong>『我々みんながスピードに束縛され、そして我々の慣習を狂わせ、<br />
家庭のプライバシーまで侵害し、<br />
"ファーストフード"を食することを強いる"ファーストライフ"という<br />
共通のウィルスに感染しているのです。<br />
いまこそホモ・サピエンスは、この滅亡の危機に向けて突き進もうとするスピードから、　自らを開放しなければなりません。<br />
我々の穏やかな悦びを守るための唯一の道は、<br />
このファーストライフという全世界的狂気に立ち向かうことです。<br />
この狂乱を効率と履き違えるやからに対し、私たちは感性の悦びと<br />
ゆっくりといつまでも持続する楽しみを保証する<br />
適量のワクチンを推奨するものであります。<br />
我々の反撃は、"スローフードな食卓"から始めるべきでありましょう。』</strong></span></p>

<p>このせわしなさは単に個人の生活を侵しているだけではない。職場の人間関係、友人関係、家族関係までも侵し、ノイローゼ、引きこもり、家庭崩壊などの現象を惹き起こしている。経済発展こそ人間生活の充実を保証するものだといったまやかしの幸福論をぶち上げ、経済最優先の社会を作り上げた人類は、いま地球環境破壊という大きなつけまで支払わされている。</p>

<p>こうした異様な世相に多くの人が不安を抱き、世界の終末を予感する人も増えてきているように思う。人類が破滅の危機にあることを多くの人が認めつつあるということだろう。これが資本主義経済社会が行きついた姿であり、金と物質的豊かさのみを求め続けた結果の姿なのだ。</p>

<p>ではこうした状況を変えるにはどうすればいいのだろう。政府や専門家と言われる人たちは抜本的な改革を本気で考えているだろうか。常に不景気やインフレや物価や消費者の購買力など、目先のことだけに右往左往しているだけのように見える。この資本主義経済に欠陥があることを多くの人が感じ始めているのだから、まずはそれを見極める議論から始め、抜本的な改革を真剣に考えなければならないだろう。</p>

<p>後にムハマド・ユヌス氏の考えた「ソーシャル・ビジネス」を紹介するが、私はこれは一つの有効な改革の道となるだろうと思っている。ただ問題の根はもっと深いはずで、人間存在のあり方から、また人間の生活のあるべき姿から考え直さなければ本当の改革にはならないだろう。</p>]]></description>
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            <pubDate>Wed, 23 Sep 2009 11:07:53 +0900</pubDate>
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