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        <title>現代未解決問題取扱所</title>
        <link>http://mitsuno-y.com/</link>
        <description>現代未解決問題取扱所 - この宇宙や人類に関する多くの未解決な事柄に立ち向かい、何らかの方向性を見出すことを目的としています。</description>
        <language>ja</language>
        <copyright>Copyright 2008</copyright>
        <lastBuildDate>Tue, 16 Dec 2008 12:55:44 +0900</lastBuildDate>
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            <title>「予言」の記事を作成しました</title>
            <description><![CDATA[<p>12/14（日）に開催された勉強会でお話しした、「<a href="http://mitsuno-y.com/file/category/cat15.php">予言</a>」の記事を公開しております。ぜひご覧になってください。</p>

<p>なお、次回は「異星人」について掲載します。<br />
</p>]]></description>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">お知らせ</category>
            
            
            <pubDate>Tue, 16 Dec 2008 12:55:44 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>予言の背景</title>
            <description><![CDATA[<p>先に予言には二種類あると言った。ひとつは古い記録を読み解くもので、これは人間的な能力によるものに過ぎなく、極端な言い方をすればどう解釈しようとその人の勝手である。もうひとつは本人が自発的に述べる場合である。これには様々なタイプがあり、一種の催眠状態で述べる場合、その人に懸かった霊的な何かが書かせたり言わせたりする場合、夢の中で言葉や映像を受け取る場合、あるいは故意に特定の霊や神を呼び出して言葉をもらう場合などがある。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/yo_book.jpg" alt="イメージ" class="img_right" />一つ目のタイプについて言うと、古文書の解釈は大変難しい。記録を読み解く場合、その字面だけを解釈すると大きな間違いを犯す。文書というものは時代の影響の下に書かれているものなので、その時代背景を考慮に入れなければ正しい解釈はできない。いかなる人間も時代の子であり、時代を超えて存在することはできないからである。しかも読み解く側も、自分の生まれた時代の影響下にあり、その時代を超えた解釈をするのは難しいからである。それは我々が民主主義の洗脳を受けているため、ヨーロッパ中世の王国の庶民や日本のかつての藩の一般庶民が、どういった生活感覚を持っていたかを理解するのが難しいのと同じである。</p>

<p>近年ノストラダムスの「諸世紀」に書かれた1999年の予言が外れ、解釈した人が批判を受けたりしたが、こんなことは歴史上いくらでもあり、世界中のあちこちで終末を信じて全財産を使い果たし、結果その終末が来なかったので予言者を裁判に訴えるということもしばしば起こっている。</p>

<p>古文書をひも解いて解釈した人たちは厳密には預言者とはいえないだろう。何かを読んで終末が何年後に来ると言っても、所詮は推量にすぎないし、従ってその年代が外れたとしても驚くに当たらない。また彼らの言葉を真に受け、それが外れたからといって憤慨する人も、自分の人間的な推量の範疇で判断したわけだから、外した人を責めるのは責任の転嫁でしかない。また怠惰で自暴自棄となった人間が終末でも来ればいいと思っているところにそうした予言が転がり込んできて、これぞとばかり飛び付く場合もあり、それが外れたからといって責めるのも同じく責任転嫁でしかない。</p>

<p>このように人間的判断には多くの間違いが伴うもので、解釈された予言を安易に信じるのは、自分の愚かさを露呈する結果になってしまうこともしばしばある。</p>

<p>予言のもう一つのタイプは本人が自ら公言する場合である。先にも言ったようにこれには色々な種類がある。出口なおのように御筆先(おふでさき)といって神の言葉を無意識に書き記す場合、エドガー・ケーシーのように仮眠状態で何者かの言葉を語る場合、聖書の預言者やジュセリーノのようにある場面の映像を見る場合、イタコのように特定の霊を呼び出してその言葉を述べる場合などがある。</p>

<p>この中で出口なおやケーシーの場合は、本人は学問や専門的な知識がないにもかかわらず、学者が舌を巻くような専門的な知識を伴なった内容を書いたり述べたりしている。現代科学のいかなる分野の方法論をもってしても、こうしたことに説明を加えることはできない。したがって学者はこうしたことには触れずに無視している。</p>

<p>幻視について言えば、聖書の預言者やジュセリーノのような特別な人でなくとも、多くの人が体験していると思う。ただ一般の人は公言しないだけである。こうした能力についても現代科学は説明できないので無視を決め込んでいる。</p>

<p>イタコについて言うと、彼女たち(または彼ら)は生まれつき盲目や弱視だったため、生活の糧を得るためになったのがそもそもの始まりだと言われている。ただしイタコになるには相当に厳しい修行があり、現在では苦労をいとわない若者が少なくなったため、イタコのほとんどは高齢者となってしまっている。彼女たちがするのは口寄せと呼ばれるものである。それは尋ねてくる人の先祖の霊などを下ろして自分に乗り移らせ、その言葉を語るものである。現在これは国の指定選択無形文化財になっている。</p>

<p>このイタコについても学者は無視を決め込んでいるが、中には深層心理学を持ち出して、無意識からくる自分の声を聞いているといった説明がなされることもある。彼らは学問の権威を振りかざし、時には侮蔑の意味を込めてそう言うこともある。私に言わせれば、無意識を最初に説いたフロイトや無意識の探究に生涯を捧げたユングなどはさぞかし迷惑しているだろうと思う。</p>

<p>では現代科学が解けないこれらの事実をどう解釈したらいいのだろうか。それはこれまでも言ってきたように、物質界の論理にこだわっているから解けないのであって、もし物質界だけにこだわる科学的手法を捨てる勇気が持てれば、物事の真の姿が別の地平から見えてくるだろうと思う。</p>

<p><br />
<h4>所長の見解</h4></p>

<p>終末予言を除けば、一般に予言は当たることもあるし当たらないこともある。日本語の慣用句に「当たるも八卦、当たらぬも八卦」という言葉があるが、実際的中率100%という予言者は現れていない。しかし全て出鱈目で、的中したのは偶然だと単純に片付けてしまったのでは何の説明にも解決にもならない。では一体どう解釈すれば予言に関する矛盾のない全体像が得られるのだろうか。</p>

<p>解決の一つの鍵はアカシック・レコードにあると思う。これは私の言葉に置き換えれば想念場である。他の項でも言ったように、アカシック・レコードは宇宙の全ての記録が蓄えられた次元だと説明される。しかし記録といっても単にノートやハード・ディスクに書き込まれたような固定的なものではない。これは銀河や惑星の隅々からやってくる新しい情報(生物の想念も含む)によって変化し、作り変えられていくものなのである。</p>

<p>ルパート・シェルドレイクの形態形成場やC・G・ユングの集合無意識、プラトンのイデア論でいう「真なる世界」も、実はこれと同じものを指していると思われる。彼らはそれぞれ自分の専門分野からこうしたイメージにたどり着いたのだが、名前や意味内容が少しずつ違うのは、アカシック・レコードという大きな構造の、一つの局面を切り取ったためだと考えられる。</p>

<p>注意しなければならないのはアカシック・レコードを含む宇宙全体も、実は固定されたものではなく、常に変化発展してゆくものだということである。しかも宇宙は階層的な構造をしているので、地球には地球規模の、太陽系には太陽系規模の、銀河系には銀河系規模のアカシック・レコードがあると思われる。そしてそれらは互いに有機的につながりながら、想念や様々な情報を交換し変化していっているのだと思う。</p>

<p>我々は日常において気付かずにこれらのシステムに参加している。すなわち我々が「思う」ことによって地球規模の想念場が形成され、それが太陽系規模の、さらには銀河系規模のアカシック・レコードに影響を及ぼし、そこで精査され変容されたものが同じルートを経て送り返され、今度は我々の想念が影響を受けるのだと思われる。しかもこのアカシック・レコードは多次元的な構造をしているので、他の次元からの干渉や影響によっても集約や変容がなされると思われる。したがって我々の元に送り返される時には、こうした多次元からの何らかの影響もあると考えられる。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/record2.jpg" alt="イメージ" class="img_right" />さて予言者と呼ばれる人たちは、このアカシック・レコードに何らかの形で繋がったのではないだろうか。そこには過去から未来に至るまでの全ての記録が、変化・進展しながら保存されているので、将来起こることを垣間見ることもできるのだと思う。しかしアカシック・レコードは言わば有機的に成長してゆく立体的な生き物のようなものであり、それを垣間見る人間の方は平面的な断面としてしか見ることができないので、完全な未来像を把握するのは不可能だと思われる。したがってどんな有能な予言者も予測を外すことがあり、またアカシック・レコードにアクセスした時点では確かな未来であっても、アカシック・レコード自体が変化・進展するので、時が経てば当たらなくなってしまうということも起きるのだと思う。</p>

<p>さらにもうひとつ付け加えるなら、予言者が持っている波動の次元によってアカシック・レコードの見え方が違ってくるとも考えられる。お金を取って個人の占いなどをする場合など、占う本人の魂が欲に穢れている可能性があるので、そうした場合にはアカシック・レコードが歪んで見えるため、歪んだ予言または占いをしてしまうこともあると考えられる。</p>

<p>予言を解くもう一つの鍵は、異次元に存在する霊的生命体を想定することである。霊的生命体には波動の高いものから低いものまで様々ある。聖書に出てくる神も最高の波動を持った霊的生命体だとは言い難い。旧約聖書にある「私は嫉妬の神である」という言葉、またエジプトで「すべての初子を撃つ」と言って、罪のないエジプト人の長子を全て殺してしまった行為(のちにこれはユダヤ教の過越の祭りとなった)などを見れば、エホバは全知全能の神のイメージにはほど遠いと思われる。</p>

<p>多くの霊能者と呼ばれる人も、いったいどの程度のレベルの霊的生命体と交信しているのか分からない。日本語には審神(さにわ)という言葉があるが、これは神(あるいは神慮)を審察するという意味である。多くの霊能者は「私には誰それが憑いている」と神の名を騙(かた)ることが多い。大日如来、阿弥陀如来、観世音菩薩、天照大神、キリスト、マリアなど例を挙げれば限(きり)がない。</p>

<p>「ひふみ神示」によれば、三度名を尋ねれば本当のことを言うという。それは霊体が想念がそのまま実現する世界にいるので、三次元のように嘘を吐き通すことができないからだという。他にも審神(さにわ)のための判断基準はある。怪しげな霊体の場合、往々にして次のような特徴を示すという。</p>

<p>・高い次元の神の名を騙る<br />
・物事について断言的な言い方をする<br />
・態度が横柄である<br />
・全体に下品である</p>

<p>などといった徴候を示すという。これらは異星人と交信しているなどという場合の異星人にも当て嵌るだろう。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/record.jpg" alt="イメージ" class="img_left" />我々の三次元がいくつもの次元と重なっているとしたら、本人の持つ波動に見合った霊的存在が憑依するだろうことは容易に想像がつく。低い波動を持つ人は多くの低級霊が憑きやすく、しかもそういう人は高級な霊が憑いたと勘違いしやすい。一方高級霊の場合は本人にも周りの者にも分からない状態で憑依するという。これはちょうど芸術家がものを作り出す時の状態と似ている。それは天啓とも言うべきもので、我々は一般にこれをインスピレーションと呼んでいる。これは偉大な芸術作品が生まれる時や偉大な発明がなされる時にやってくる気付き、あるいは閃きのようなもので、それを憑依だとは本人も周りの者も思わないだろう。高い波動の霊体が憑くときはそのようなものだと考えられる。</p>

<p>これらのことを概観すれば、予言は他に求めれば自分を失い、自己の中に求めれば自分が活かされるということではないだろうか。自分の外からくる声や指示ばかりを追い求め、それに従っていては、やがて自分を失い、声の主に人生を預けて、結果的に誰の人生を生きているのか分からなくなってしまうだろう。</p>

<p>逆に自分の内なる声に耳を傾ければ、詩人や小説家がそうであるように「湧き出る」言葉に自分を見出し、充実を味わうだろう。内なる音に耳を傾ければ、作曲家がそうであるように「湧き出る」旋律に喜びと満足を覚えるだろう。また発明家の多くが言うように、金儲けのためではなく、誰かのために役立ちたいという思いが、結果的に閃きを招き入れたのではないかという感想にもあるように、愛や思いやりの波動が高度な閃きを生むのではないだろうか。</p>

<p>このようなことは特別な人に起こるのではない。我々が静寂の中で魂の感動を味わおうとすれば、誰にでも起こることなのだと思う。一度テレビもラジオもセックスも金も忘れ、多忙と喧噪としがらみと執着を遮断し、静かな部屋で自分の声を聞こうとすれば、誰にでも高い波動の霊体が、真の神憑りとして訪れてくることだろう。それは言い方を変えれば、真にアカシック・レコードと繋がることでもある。</p>

<p>予言の全体像はこのように多次元的な視点をもって見つめなければ浮かび上がってこない。我々がこの三次元にしがみついている限り、様々な想定や発想ができないばかりか、推論の広がりも持ち得ない。我々は恐れることなく三次元の枠を超え、新しい地平を切り拓かなければならない。そしてアカシック・レコードと繋がった者たちに「霊能者」というレッテルを貼るのではなく、自分にもそうした能力が備わっているのだと受け止め、そして本来の高次の自分の姿を思い出す努力をすべきだと思う。それは同時に波動の低い霊能者に対する崇拝や追従から自らを守ることにもなるだろう。</p>]]></description>
            <link>http://mitsuno-y.com/file/200812/16_115931.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">予言</category>
            
            
            <pubDate>Tue, 16 Dec 2008 11:59:31 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>終末予言</title>
            <description><![CDATA[<p>この世の終末に関する予言は歴史上数え切れないほどあった。我々が知る限り古代から現代まで、そして地球上の様々な地域において、何度も終末は予言されてきた。しかし我々が見るとおり、今までのところそのどれ一つも当たってはいない。もしどれか一つでも当たっていれば、今のような世の中はなくなっているはずだからだ。</p>

<p>この100年以内を見ても、終末予言は分かっているだけで五十を超える。また紀元以降、記録に残っているものだけを拾っても軽く百は超える。記録に残っていないものを含めれば何百になるか予想もつかない。これらの予言をした人の中には宗教的指導者、修道士、占星術師、錬金術師、数学者、物理学者、宗教の一信徒など様々な人がいる。最近ではオカルト宗教の指導者や新興宗教の開祖、ピラミッド研究家、UFO研究家、普通のビジネスマン、大学教授など、これまた多様である。</p>

<p>ここでは全てを列挙できないので紀元後のものについてだけ触れると、予言された終末の年は紀元170年を筆頭に992年、1186年、1335年、・・・・・1842年、1914年、1921年、・・・1960年、・・・1970年、・・・1995年、・・・1999年、2000年、2001年、2003年、2006年、2008年、とこの後も続く。このうちの1914年はエホバの証人の創始者、1921年は大本教の信徒、1960年はキリスト教系の宗派の教祖で、彼は預言を外して警察に告発されている。1985年はアメリカの予言者、1995年は日本のオーム真理教の教祖、2000年と2001年は複数の人が予言している。なお1999年についてはノストラダムスというより、それについて本を書いた著者が予言したと言うべきだろう。</p>

<p>これ以外にも年代を特定していない終末予言がある。その代表的なものは聖書である。歴史上様々な人が旧約と新約の聖書を読み解き、その年を特定したと公言したが、誰一人当たらなかった。しかし何億という人が聖書に書かれた終末を信じているのも事実である。これはイスラム教においても同じである。ただ誤解されることが多いので仏教の終末思想について言うと、これは世の終末を言ったものではない。正しい名称は末法思想であり、仏教の教えがやがて廃(すた)れ、忘れられる時代が来ると言ったまでである。仏教には時代とともに仏法が忘れ去られ、世の中が乱れていくという考え方があるので、現代とは違い、時代は進歩するのではなく退歩するという下降的歴史観をその基本に持っている。</p>

<p>これ以外にも見逃してはならないものがある。古代マヤ族の暦や、ホピ族の持つ歴史観である。古代マヤ文字は未だ完全に解読されていないので、マヤ人が実際に終末を予言したかどうかは分からない。我々が知り得るのは彼らが作った暦だけだからである。この暦を西暦に直すと2012年で終わっているというのである。これを終末と解釈しているのはマヤ人ではなく、我々先進国の、彼等から見れば外国人である。</p>

<p>またホピについて言えば、彼らは過去も未来も現在にあるような、我々には馴染みのない歴史観を持っていいる。そして過去も未来も現在のように語られる。これはホピ族の言葉に過去形も未来形もないことによるとも言える(実は英語にも本当は未来形がない。それは動詞の過去形はあるが未来形がないからだ。我々は現在形の動詞と助動詞などの組み合わせを未来形と呼んでいるにすぎない)。このホピ族がカチナの踊りという、彼らにとって重要な踊りを戦後間もなく踊っている。この踊りは人類に大きな節目が来る前に行なわれるのが伝統で、普通は百年に一度踊られるかどうかという、めったにないものだという。ホピ族がこのカチナの踊りで示した大きな節目を、この世の終末と解釈しているのも我々外国人である。</p>

<p>ただしマヤ人の暦やホピ族の儀式(踊り)には現代の文明人が持っているような作為的なものは入ってない。何故なら彼らの儀式や口承や暦は彼らのアイデンティティー(自己証明)そのものだからである。もしそうしたものに嘘や作為的な内容を入れれば、もはやマヤ人でもなくなるしホピ族でもなくなるからである。すなわち彼らにとってこれらは命と同じくらい重要なもので、そこに嘘や作為的な内容を入れるなど思いもよらないはずである。</p>

<p>もう一度言えば、何百と現れた終末予言はほぼ全てはずれているということである。「ほぼ」というのはまだその時が来ていない予言があるからだ。それを除けば全て見事にはずれている。それでも次から次と絶え間なく予言は現れてくる。このような事態を見れば、終末予言など馬鹿げたことだと思わざるを得なくもなる。一体我々は何を信じ、何を信じるべきではないのだろう。</p>

<p><br />
<h4>所長の見解</h4></p>

<p>終末予言の特徴には二つのタイプがある。ひとつは古い記録を読み解いて「これは終末を意味している、時期は何年後の何時いつである」と後の時代の誰かが解釈を加える場合である。もうひとつは本人が自発的に言う場合で、これには神憑り状態で言葉や映像を見る場合と、そうでない場合とがある。</p>

<p>世の中の不安が増すと、たとえ経済的に豊かであっても終末論が叫ばれることが多々ある。私には上のどちらの場合も、予言をする者がこの世の終末を期待していた可能性があると思っている。見方によっては彼らは破滅型の人間だと言えるかもしれない。人類愛と世界平和のために何か行動を起こすのではなく、先に諦めがあって、一種の自暴自棄が彼らにそう言わせたと思える節もある。そして彼らは世間の人々が浮足立つのを見て、自分の影響力に快感を覚えるのかも知れない。時の支配者にはこうした破滅型の人間は危険極まりなく映る。したがって権力による弾圧もしばしば行なわれた。</p>

<p>ではなぜこうした現象が起きるのか。最大の理由は今も言ったように不安だと思われる。不安は具体的な悩みよりも遥かに始末が悪い。具体的な悩みは人にも相談でき、対策を立てることも可能で、大抵は努力によって解決できるものである。ところが不安は誰に相談しようと対策など教えてくれる人はいない。しかも努力によって解決できる類のものでもない。人間はよほど強靭な精神の持ち主でもない限り、長期間の不安には耐えられない。したがって多くの人は何らかの結論に縋(すが)りつくのである。その一つが宗教であり、ほかは占いや予言やチャネラーの言葉である。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/office.jpg" alt="イメージ" class="img_right" />現代はまさに不安の時代である。長期間不安を感じ続けた敏感な人たちは、その多くが神経症(ノイローゼ)や内臓疾患、引きこもりや自傷行為に至る。そうでない能天気な人たちは宗教に傾倒し、自分たちはこの世で最も正しい選択をした、と馬鹿げた結論で自分を騙し続けている。現在では宗教でなくとも占い師やチャネラーのもとに通い、あなたはああであるこうであると言われて鵜呑みにし、自分で判断する苦労から逃れるために彼らの言葉に従い、自分の人生を放棄している人もいる。さらに別の人たちは自ら占い師やチャネラーになって、ひたすらどこの神だか分からない神の声を聞き、超能力と言われる能力を得たことに有頂天になって、自分が聞いた言葉の奴隷になり、これまた自分の人生を放棄している。</p>

<p>このように人は不安から逃れるためにはなりふり構わず何でもする。多くの人は不安から逃れるために何か絶対体的なものを求め、自分を騙してでも、自らの人生を放棄してでも、絶対的なものに縋(すが)ろうとする。そうでなければ生きていけないと感じるからだろう。不安な人たちにとって絶対的なものは蜜の味、癒しの極致だからである。</p>

<p>現代科学がかつての宗教のように権威を得てしまった現在、科学が絶対だと思っている人たちも同様である。この類の人たちは保守的で無神経、頑固で寛容性がないので、人間の霊性や死後の世界、多次元的な宇宙の成り立ちなどに心を開くことはない。こういう人たちは中世のヨーロッパで教会の教え以外何も受け付けなかった人々と変わるところがない。自分たちが一番正しいと思っているという意味では、まさに宗教の信徒と同じである。</p>

<p>では他に不安を逃れる道はあるのだろうか。残念ながらこの世にそうした道は用意されていない。何故なら我々は修行と気付きのために、自ら志願してこの世にやってきたはずだからであり、安易な道を歩むためにわざわざ生まれてきたわけではないからである。</p>

<p>ではチャネラーや占い師や宗教に頼ることなく正気を保ち続けることは果たして可能なのだろうか。フランスの詩人ヴェルレーヌの詩に次のような一節がある。</p>

<p>「選ばれてあるところの、恍惚と不安と二つ、我にあり」</p>

<p>我々はこの世に生を受けた以上、不安に耐え、不安の中で自分の道を模索しなければならない。しかしそれは必ずしも惨めで不幸なものではなく、一種の誇りとも言える恍惚を伴った道だと彼は言いたかったのだと思う。</p>

<p>今の忙しい世の中、テレビを点けずに静かな部屋で詩を読むなどといった人は殆どいなくなってしまったように思う。多くの人が下品な笑いを売り物にするテレビ番組と、発展性のない感情のしがらみを描いたドラマに嵌(はま)っているように見える。詩を読み、また詩を書くといった、魂の感動を味わう日本人はどこへ行ってしまったのだろう。</p>

<p>予言は手っ取り早く結論を与えてくれる安易で分かりやすい道である。我々はそれら予言の中にどれだけの根拠があるのか、慎重に見極めなければならない。今多くの人が感じているように、この世のシステムは世界規模で崩壊の瀬戸際に直面している。この時宜(じぎ)を得て次々と終末を予言する人や、神の名を借りて宇宙の真実を断言する人が現われてきている。我々はこうしたものを単純に信じたり、逆に毛嫌いしたりするのでなく、冷静に真偽を確かめるよう努めなければならない。では次にその見極めの方法について一端を述べるとしよう。</p>]]></description>
            <link>http://mitsuno-y.com/file/200812/16_115518.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">予言</category>
            
            
            <pubDate>Tue, 16 Dec 2008 11:55:18 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>占い</title>
            <description><![CDATA[<p>占いの歴史は非常に古い。中国では亀の甲羅や動物の骨を焼いてひび割れを起こし、それを読み解いて吉凶を占ったと言われている。このときのひび割れがやがて甲骨文字となり、後の漢字の土台になったと言われている。この文字は殷の時代に使われていたので、時期は紀元前17世紀まで遡る。占い自体は甲骨文字ができる以前から行われていたと思われるので、おそらく中国大陸で国家が成立した時代と同じくらい古いのではないかと思われる。</p>

<p>一方、西洋占星術と呼ばれる占いがあるが、これはもともと西洋で生まれたわけではないので、頭に「西洋」を付けるのはおかしいと思う。これは約5000年前(4000年前という説もある)のバビロニア、すなわちメソポタミア地方で生まれたと言われているので、東西で分けるなら明らかに東洋に属する。ただアレキサンダー大王の遠征によってヘレニズム世界へも広がり、そこで発達したのも事実である。</p>

<p>過去、世界中の王朝で占いは重要な役割を果たしていた。国の一大行事や戦争を仕掛ける時期など、国の存亡を左右する事柄のほとんどは占いを基に判断していた。ただし結果が「凶」と出た場合、「吉」が出るまで何度も占うということもあったようである。</p>

<p>現代人は国家の重要な問題を占いで決めるなど、到底理解できないかも知れない。人によっては分かった風(ふり)をして、単に無知で原始的だっただけだと言うかも知れない。しかしそれは現代の宗教ともいえる科学や論理的な考えを基準にした言い方に過ぎなく、古代人に対する理解にはほど遠い。そういう言い方をする人はむしろ自分の無知を知るべきではないかと思う。</p>

<p>古代国家が国の重要案件を占いによって判断していたということは、今風の遊び心で占ってもらったり、悩み事を解決してもらうのとは訳が違う。何故なら戦争などの場合、王族の生死だけでなく民族そのものの存亡に係わったからだ。そこには偶然などという要素は入る余地はなかったと考えられる。</p>

<p>アインシュタインは「神はサイコロを振らない」という有名な言葉を残しているが、私は偶然という概念は、近代の数学者によって生み出された確率論に依るところが多く、一般的な概念となったのは時代的にかなり新しいと思っている。深層心理学者のユングもシンクロシニティ(共時性)という概念を提唱し、パウル・カウンメラーも「連続性の法則」を唱えたが、彼らはアインシュタイン同様、物事は偶然が支配しているのではないということを主張したのだと思う。</p>

<p>古代において占いが重要な役割を果たしたのは、物事は偶然ではなく必然によって起こるという考えが人々のものの考え方の基底にあったからに違いない。しかも古代国家においては普通に霊界や神界と通じ合える人がいて、中でも能力の高い者は王のお抱えになっていたと言われている。私の推測を言えば、古代国家の支配者は、人間的な判断がいかに間違いを犯しやすく悲惨な結果を招くかを、長い歴史を通して学んでいたのではないかと思う。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/sai.jpg" alt="イメージ" class="img_right" />現代においては全てを偶然の出来事に還元して、霊界の関与も神々の関与も否定してしまっている。したがって人生は運・不運がまるでギャンブルの当たりはずれのように、努力や怠惰と関係なくやって来るように思っている人が増えてしまっている。そうした人の中には、お金を払って占い師やチャネラーなどのところへ行通い、努力せずに金や財産や素敵な異性が転がり込んでこないものか、苦労せずに抱えている問題を解決する道はないものかと甘い夢を見続けている。こういった人たちはたとえそれが実現したとしても幸せにはならないだろう。何故なら彼らは努力に関するきちんとした考えを持っているとは思えないし、そうした考えを持つための辛い道のりを放棄しているからだ。言葉を換えれば、自分で苦労して編み出した人生哲学を持っていないからである。</p>

<p><br />
<h4>所長の見解</h4></p>

<p>古代の占いを現代のそれと比較すれば、その真摯(しんし)な態度と怠慢な態度という点だけでも大きく異なっている。古代においては民族の存亡がかかっていたので、占いに遊びの要素など入る余地はなかったと思われる。しかし現代においては、個人的な悩みが、偶然やってくる何らかの幸運によって解決されないかと、あるいはできるだけ努力をせずにお金や恋人が運よくやってこないものかと、自分の怠惰を補ってくれるものを求めて占い師やヒーラーやチャネラーのもとに馳せ参じている。</p>

<p>古代の国家運営は高い地位にある側近などが議論を重ね、その結果を王に提言や進言していたと思われるが、もちろん最終的に決断するのは王自身だったろう。したがって王だけは誰にも相談できず、誰にも頼れなかったことは容易に想像がつく。これは言い換えれば王は限りなく孤独だったということである。そうした状況の中で占いは生まれたのではないかと思う。</p>

<p>現代は古代と違い、民主主義という美名のもとに国家運営が行われている。それは人間的判断が全てを決めるシステムであり、それによって多くの間違いを犯す結果を招いている。地球を現在のような住みづらい星にしてしまったのも、民主主義が行なわれた結果だとも言えるだろう。</p>

<p>また我々は民主主義的な考えが最も優れているという洗脳を受けているので、古代のあらゆるものが現代より劣っているかのように思っているかもしれないが、では一体何が劣っているのだろう。古代遺跡を見れば多くの場合、彼らは現代の先進国に住む人々とさほど変わらない快適な生活をしていた様子が窺える。上水道、下水道、区画整備された住宅街、幅広い公道、きれいな水脈と大気。もちろんすべてがいいというわけではない(実際森林伐採による問題は各地の古代文明で起こっていた)が、少なくとも現代が抱えるスラム街や大量消費によるゴミ、汚染などの問題などはなかっただろう。</p>

<p>さらに言えば、古代人が現代人より不便で不幸な生活を送っていたというような想像は現代人の驕りに過ぎない。何が便利で何が幸せかは、文明の機器やお金によるわけではないので、誰にもそんなことは分からないはずである。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/concrete.jpg" alt="イメージ" class="img_left" />コンクリートとアスファルトの巨大な都市を造り上げて結果的に花粉症になっていることが、はたして便利なことなのか不便なことなのか。全人類がコンピュータを使うほどの機械文明を造り上げて、結果的に地球を汚染し破壊していることが果たして便利で幸せなことなのかどうか。我々は現代社会の方が優れているという信仰を押し付けられてきたが、教育の中で受けたそうした洗脳を払拭し、曇りのない目でもう一度歴史を見直すべきだと思う。</p>]]></description>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">予言</category>
            
            
            <pubDate>Tue, 16 Dec 2008 11:51:32 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>予言と預言</title>
            <description><![CDATA[<p>「よげん」には二つの字がある。日本で使われているのは多くの場合「予言」の方で、これは知っての通り未来の出来事について、予(あらかじ)め述べたり書いたりしたものである。これに対して「預言」はキリスト教やイスラム教で多く使われていて、神から預(あず)かった言葉のことである。</p>

<p>旧約聖書を読むと何人もの預言者が出てくるが、彼らの多くは預言者になることを望んでいなかった様子が窺える。何故なら預言者に選ばれることが、神から預かった言葉を単に民衆に伝えるだけでは終わらないことを知っていたからである。民衆が神の御心から離反していれば、言葉を伝えることによって逆に迫害を受けるかも知れず、また預言の内容が政治上の支配者の意にそぐわなければ、彼らの手の者に捕えられるかも知れなかったからだ。とはいえ彼らが預言者になることを固辞したとしても、彼らの神は決して許さなかった。それは神が自らの全能によってその者を選んだからであり、全能による決定は当然絶対だったからである。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/predict.jpg" alt="イメージ" class="img_right" />このように「預言」は現在の日本人が考える霊的能力または超能力によって言葉を得るのとはかなり様相が違う。ただし幻視に関しては、今の予言者と似たところがないわけではない。預言者の中にはたびたび幻視に見舞われ、この世のものとは思えない奇怪な幻想を見たり、恐ろしい災いが降りかかってくるのを見たり、黙示録では人類が滅びた後に天から新しいイスラエルが降りてくるのを見たりしている。これらは今風の過去世を見たり未来世を見たりするのとは違うが、映像を見るという点では一致している。ただしこれにしても、預言者は自ら意識的に見ることはなかった。現代のお金を取って個人の過去世や未来世を見る者が、特定の時間や場所を意識的に見るのとは違っている。</p>

<p>もうひとつ言っておくべきことは、神かどうか分からないがとにかく言葉が下って「こう人々に述べ伝えよ」と言われた場合、これは一応預言だと言えるだろうが、直接「こうせよ」と言われた場合は果たして預言と言えるのかどうか疑問だということである。ジャンヌ・ダルクが「オルレアンの包囲を破ってフランスを救え」と言われたり、マザー・テレサが「世の中の貧しい人の中でも、最も貧しい人を助けなさい」と言われたりしたことなどは、ノアが「方舟を造れ」と言われたのと同じ一方的な命令のように思われる。果たしてこれらは預言と言えるのかどうか疑問は残る。</p>

<p>しかしここでは予言と預言の内容を明確にするのが目的ではないので、話はここまでにする。一応の目安として「予言」は未来の出来事を予め述べることであり、「預言」は神から授かった言葉であるということを心に留めておいていただきたい。</p>]]></description>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">予言</category>
            
            
            <pubDate>Tue, 16 Dec 2008 11:49:30 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>死と生の間</title>
            <description><![CDATA[<p>霊界に行った意識は再び肉体を持って生まれる間、すなわち死から生に至る間、一体何をしているのだろう。ここでは具体的な例を挙げて説明しようと思う。ただ昨今は幽界へ嵌る人が多いように見受けられるので、そうした人を例に採ることにする。</p>

<p>29歳の男性が交通事故で意識不明となり、3日後に死んだ。彼は学生の頃多少勉強はできたので、できれば一流会社に就職したかったが採用されず、二流会社も落ち、結局地方都市にある三流の無名の会社に就職した。自尊心だけは人一倍強かったため、彼には社員たちが馬鹿に見え、社長にしてもその軽薄さが許せなかった。彼は会社や仕事に誇りが持てず、常に不満を持っていた。そして自分が正当な仕事に就けず、きちんと評価されないのは社会が間違っているからだと思うようになった。彼は社会と他人への怒りを募らせていき、ある時車で走っていて、前の車がもたもたしているのに苛々し、追い越しをかけた時トラックと正面衝突した。</p>

<p>彼は肉体から抜け出した時、怒りがピークに達し、止まった前の車のところへ行き、震えている運転手に大声で怒鳴りつけた。しかしその運転手は気が動転しているのか、彼の方を見ようともしない。彼は感情をこらえきれず運転手の胸座(むなぐら)を掴んだ。しかし何故か掴んだはずの胸座に変化はなく、掴んだ感じもしなかった。彼は何度か試みたが同じなので、しまいに殴りかかった。しかしこれも空振りに終わった。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/world.jpg" alt="イメージ" class="img_left" />彼は自分に何が起こったのか理解できず、怒りを周囲にぶちまけていた。やがて彼は自分の葬式が行われるのを見て衝撃を受ける。自分は何も変わっていないのにこれが「死」であるはずがない。何故みんな自分を死んだと思っているのかと。そうこうするうちに地上ではあっという間に49日が過ぎる。(霊的世界では三次元で言う時間的経過はなく、変化が時間経過のように感じられるだけなので、彼の精神に変化がない限り地上的な時間経過を感じることはない。すなわち彼にとってはあっという間に49日が過ぎることになる)</p>

<p>その後彼は引き寄せられるようにある街に入って行く。そこには彼と同じように常に苛々し、自分は悪くないのに周りのせいで自分は不幸な状況にあると思っている人が集まっている。彼はそこで地上と同じように暮らすことになる。仕事に行くといつもと違う仕事仲間がいる。しかし彼は自分自身にしか目が向いていないのでたいして気にも留めない。彼らは彼と同じように苛々し、何か起こると彼のせいにしようとする。それに彼は苛立ち、喧嘩になる。彼らは全員自分のことしか考えていないので争いは絶えない。そうした毎日が延々と続いてゆく。</p>

<p>三次元の地上で10年経ったか100年経ったかは分からない。しかし彼らに変化はないので、年を取ることも状況が変わることもなく、同じ生活を繰り返している。やがて誰かがふっといなくなり、また急に一人増えたりする。だが彼らは誰かが会社を辞め、また一人入って来たくらいにしか思っていない。しかしついにある時、それは地上時間で300年かも知れないが、彼は自分がそうした生活に飽きてきているのを感じる。そしてもうこんな生活はやめようと思った途端、不意にその世界から抜け出る。</p>

<p>外へ出ると一人の見知らぬ人が彼を出迎えている。その人は指導霊(英語の書物ではguide＝ガイドと表現されている)なのだが、彼にはそのことがよく理解できない。すると指導霊は「もう飽きたでしょう。上の方へ行きましょう」と言って彼を導き、霊界へ連れてゆく。</p>

<p>この指導霊が無理に彼を幽界から連れ出そうとしなかったのは、宇宙の持つ主体性の保持という原理に従い、自分の意思を押し付けなかったからだ。彼は本来ならまっすぐ来るべき霊界に、こうしてようやく来ることができたのである。</p>

<p>彼はある一室に連れて行かれ、そこで地上で染み付いた垢を落とされ、傷ついた魂の癒しを受ける。しかし地上で自分が作ったカルマや、それ以前の生で背負い、しかも今世で浄化できなかったカルマなどはそのまま残される。彼はそのカルマを浄化し高い魂の波動を得るために、再び三次元に生を受けなければならないと言われる。</p>

<p>彼は何人かの指導霊と共に次の生の計画を練る。しかしそれは自分の意思だけで作れるわけではない。最低限、自分のカルマを浄化するための場面が設定される。すなわち彼が苛々を募らせ、自分の不幸をすべて他人のせいにした時の状況が同じく設定されるのである。これは彼がそのカルマを乗り越えない限り何度でも課せられる。</p>

<p>もう一つ彼は崇高な目標を立てなければならない。それは自分がより高い波動を得るために自ら設ける試練である。この計画作成時点では、多くの人は学びのための試練を勇気をもって設定する。それは霊界に身を置いている限り、階層的宇宙の構造と、生命が向かうべき最終ゴールがきちんと認識できるからである。(すなわち地上での如何なる劣悪な状況も、実は自分が自らに課した試練であって、それを乗り越えて高い波動を得るために自分で選び決定した試練なのである)</p>

<p>彼は計画を練り終えると、次に生まれる時代と場所とを選択する。この場合、自分の人生計画が最も有効に実現されるよう選ぶ必要がある。すなわち親や兄弟や子供など自分の家族もそうだが、友人や知人、以前の生でカルマやしこりを作った人々との出会いや、自分を支え導いてくれる人の出会いなども考えて選ばなければならない。したがってそれは指導霊や上級の霊たち(神々)の助言のもと、あらゆることを考慮して選ばれる。</p>

<p>「袖振り合うも他生の縁」という日本古来の慣用句があるが、これは見知らぬ人とすれ違う時に袖が触れ合うのも実は偶然ではなく、過去世の何らかの縁による、という意味である。宇宙は様々な因果、因縁の絡み合いを、ちょうど反物のように、織り成す模様として人間関係を編み込んでいっているのである。</p>

<p>さて全ての準備が整うと、彼は生まれる時を待つ人々の列に加わる。それが地上時間の10年であるかもしれないし500年であるかもしれない。しかし霊界には変化以外に時間経過を感じさせるものがないので別に苦痛ではない。そしていよいよ生まれる段となると、彼は霊界の記憶と全ての過去世の記憶を消される。それは地上での生活が試練であり、前世の記憶や霊界での計画作成の記憶があれば試練とはならないからである。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/world2.jpg" alt="イメージ" class="img_right" />彼はいよいよ三次元の母親の子宮に吸い込まれ、人間として生まれる。生まれたとき彼は以前の三次元世界のことを忘れているので、様々なことを学び直さなければならない。その努力も彼の試練である。彼は自分がどんな親を選んだかも忘れているので、新たに向き合わなければならない。言葉を学び、躾をされ、学校で勉強し、社会に出るためのマナーを身に付けなければならない。これら全てが彼にとって試練である。しかし次々にやって来る試練に彼は押し潰されそうになる。彼は思春期から苛々を覚え始め、成人してもそれを乗り越えられず募らせてゆく。彼は勉強は多少できたのだが、結局一流会社には就職できない。二流の有名会社もすべて落ち、結局三流どころに納まる。実はこれら全てが、自己中心的な自分を変えるための機会、すなわち試練なのだが、彼はそのことに気付いていない。こうしてある日車を運転しているときに決定的な場面を迎える。果たして彼は今度はどういう態度で臨むのだろうか。</p>

<p>もし彼がこの決定的な場面に至る前に自分の傲慢さに気付いていれば、この場面を乗り越え、別の人生を歩むことになるだろう。彼は結婚し子供をもうけて、妻との付き合いや子育ての中で新たな試練に立ち向かうかも知れない。また病気や老いの中で別の試練と向き合うかも知れない。しかし車を運転している時の決定的な状況を乗り越えられなければ、彼は何度でもこの場面を繰り返すことになる。</p>

<p><br />
<h4>所長の見解</h4></p>

<p>上の例について一言付け加えれば、彼が今回の試練を乗り越えられない場合、数百年後に今あるような車は運転していないだろう。単に似たような状況がやって来るという意味である。また彼の苛立ちは実は前世だけのものではなく、それ以前の過去世から引きずって来た可能性もある。そして過去世では車ではなく、馬車だったかもしれない。すなわち時代が変わっても人の心は物質的状況とは関係せず、違う時代の別の状況の中で同じ試練と向き合うのである。技術的進歩など実は表面的変化であって、それらが真の進歩であるかのように思っているのは現代教育によって植えつけられた幻想に過ぎない。心は物質的状況は変わっても継続していて、それは試練によってのみ変わり得るものなのである。すなわち他を理解し、忍耐を身に付け、勇気を獲得し、自ら気付くことによってのみ成長するものなのである。</p>

<p>さて先ほど言ったように、死から生に至る間で、人は魂の向上に向けて来世の計画を練るわけだが、何故そうまでしてこの世に生まれて来なければならないのか。</p>

<p>理由の一つは霊界というところでは変化というものが非常に起こりにくいということである。霊界や幽界では時間的制限や空間的制限を受けないため自分の意のままでいられる。他人との関係も、同じ波動の人が集まる所にいるのでそれ以上悪くなることも良くなることもない。すなわち霊界や幽界では進歩も退歩も変化も起こりにくいということである。</p>

<p>これに対して我々の三次元では時間も空間も固定されているので、あらゆる波動の人々が一緒に暮らすことができる。我々は(大抵の場合)数百年に一度この世に生れ、自分を高めるための貴重な機会を得る。しかしそこには逆の可能性も潜んでいる。それはより波動の荒い人に引き寄せられ、自分の本来の波動を低めてしまうこともあるからである。</p>

<p>いずれにしても我々は様々な波動の人が集まる、まるで波動の坩堝(るつぼ)のような世界に来ているわけである。我々はこの世界で多くの違った波動を持つ人と接することによって、様々な、幅広い、貴重な体験をすることができる。もしこの世へ来ながら自分の殻に閉じこもり、自分の気に入らない人は避け、自分を許してくれる人だけと接するなら、千載一遇の機会をみすみす無駄に過ごしてしまうことになるだろう。</p>

<p>我々は様々なことを学ぶためにこの世にやって来た。しかも来たのは初めてではない。自分に合った学びと試練のために自ら計画し、自ら選んでやって来たのである。このことを知れば我々は与えられた貴重なこの生で、多くの本を読み、多くの人と付き合い、多くの挑戦をし、多くを学び取ってその機会を生かすことができるだろう。</p>

<p>霊界にいた我々が何故何度もこの世に生れて来なければならなかったのか、その第二の理由は魂の器の拡大とその浄化にある。何千年、何万年という時の経過の中で、良いも悪いも、酸(す)いも甘いも、幸も不幸も、あらゆることを体験し、正邪、陰陽、表裏のからくりを知り、転生を繰り返しながら魂の器を広げ、しかもいくつもの生で付いた垢を落とし、その魂を浄化するために何度も生まれ変わる必要があったのである。この浄化によって、自分は最初何者だったかを思い出し、それによって世界が終焉を迎えつつあるこの生で高い波動を得、神界へ旅立つことができるのである。</p>

<p>主に*ニューエイジ思想によれば、人の魂(＝精神＝意識)はいくつかのところからやって来たという（*ニューエイジ：アメリカで1970年代後半から80年代にかけて生まれた霊性復興的な運動。チャネリング、リーディング､瞑想、前世療法などの活動があり、ヒッピーの後の時代を担うものとしファッション化し流行した。書物にはプレアデス系星人によるメッセージなどがある。当時から20年余りを経て現在日本で流行している）。ニューエイジたちのチャネリングによれば、他の星から来た魂もあれば、高い次元から次元下降して来たものもあり、この地球で育まれたものもあるという。それらの魂は初めは皆純粋無垢で、人々はこの地上で平和に楽しく暮らしたそうである。ではなぜその後人々は歪んだ心を持ち、殺し合い(戦争)や所有欲(執着)や羨望や憎しみにまみれていったのだろう。</p>

<p>私の考えでは、宇宙は自らの壮大な展開の中で、魂がそのまま純粋無垢であることを良しとしなかったのではないかと思う。何故なら魂は幸も不幸も酸いも甘いも体験することによって、正邪、陰陽、表裏のからくりを知り、それによって宇宙は無数の魂をその本質である愛と歓喜に至らしめることを望んだからではないだろうか。</p>

<p>その目的のために、太古においては人は死ぬことがなかったのだと思う(あるいは寿命は非常に長く設定されたのだと思う)。確かに人はその長い人生の中で、様々な欲に駆られ、他の生命を食い物にし、隷属させ、また自ら隷属する方向へと落ちていった。だがそれによって人は陰陽・表裏の道理を知るのではなく、単に自我に執着し、自らの波動を荒げただけだった。</p>

<p>これを知った宇宙は人に死を与え、過去の記憶を消して出直す機会を与えた。しかしこれでも人は立ち直るどころか、邪の波動に吸い寄せられ、自ら波動を低めていった。このため宇宙は高い次元の霊を受肉させ、人々を導く者を遣わしたりした。釈迦、イエス、マホメットなどはこの例と言えるかも知れない。</p>

<p>しかし人々は初めは彼らの指導のもと、正しい道を歩むかにみえたが、聖者が死んだ後は宗教組織を作り上げ、上に立つ者は自分の権益を増大させることに夢中になり、それを守るために教えを歪曲し、そうして聖者たちの意図を台無しにしてしまった。</p>

<p>こうして時代を経るにつれ人々の邪念はさらに強まり、その波動がエネルギー場を発生させ、幽界という当初はなかった世界を形成してしまった。多くの邪(よこしま)な魂は死後、その世界に引き寄せられ、指導霊の手に余る状況となった。これが幽界を含めた現在の状況なのだと思う。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/people.jpg" alt="現代社会イメージ" class="img_right" />本来の目的や意図を忘れ、自分のことに精一杯の人間たちは、今のこの地球の破局的な状況の中にあっても、あくまで自分にこだわり続けている。我々はこの地球の破滅的な流れに加担するか、それとも様々な経験を積んで器を広げた魂を、今ここで磨いて本来の自分と本来の目的を思い出し、高い次元に旅立つか、そのどちらかの選択が迫られている。</p>

<p>死と生の間にある「死後の世界」は、このように長大な時間の中で検証しなければその全体像は見えてこない。千載一遇のこの生で、あなたは何を選択し、どう行動するだろうか。</p>]]></description>
            <link>http://mitsuno-y.com/file/200811/16_214512.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">死後の世界</category>
            
            
            <pubDate>Sun, 16 Nov 2008 21:45:12 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>構造</title>
            <description><![CDATA[<p>死後の世界は一体どういう構造をしているのだろうか。これについても様々な考えがあるので、煩雑さを避けるためにまずは大雑把な分類をしてみよう。以下は現今の言説や書物を基にして分けたものである。</p>

<p>現界：我々の住むこの世、三次元世界、(霊界、神界に対する)人間界<br />
霊界：あの世、死後の世界、霊の世界、非物質界<br />
神界：霊界の上に位置する神々(または高次元霊)の世界<br />
幽界：(以上の三つとは違って)人間の想念が創り出したもの</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/reikai.jpg" alt="構造図" class="img_right" />現界については我々が生きている馴染みの世界なので、あえて説明する必要はないと思う。霊界と神界については一般には区別はなく、「あの世」としてひとまとめにされることが多い。しかし転生を認める立場から言うと、魂(あるいは意識)は生と死を繰り返していることになるので、その場合はあの世とこの世というより、霊界と現界を行き来していると考えた方が分かりやすい。そしてカルマ(人間の業＝ごう)を克服し、もはやこの世に生まれる必要のなくなった意識は神界へ行くと考えられる。</p>

<p>さて生まれ変わり(＝転生)があるという直接証拠はないが、状況証拠ならいくらでもある。ごく普通の疑問だが、なぜ生まれつき絵を描くのが上手な人と苦手な人がいるのだろう。計算が得意な人、苦手な人。ピアノの場合4、5歳から頭角を現す天才児、いくら練習してもうまくならない子。速く走れる子、走れない子、等々。例をあげればきりがないが、人には生まれつき違いがある。何故だろう。</p>

<p>中には足が速い遅いは身体が違うのだから当然と考える人もいるだろう。だとしたら精神的能力も頭脳が違うから当然と言えるだろうか。問題は身体的にしろ頭脳的にしろ、何故初めから能力差があるのかということである。「ショパンの再来」、「チンギスハーンの再来」などという言い方があるが、初めから秀でた能力を持つ人たちは、まるでその先人の生まれ変わりのように見えるものなのではないだろうか。しかし実際にショパンの生まれ変わりでなくとも、前世や前々世でピアノやそれに似た楽器に携わって努力をした人が、初めからそうした能力を持って生まれてくると考えれば、一つの穿(うが)った説明になるのではないか。</p>

<p>転生を間接的に証明するもっと具体的な例もある。これはテレビ番組でも紹介されたのだが、一つはイギリスの婦人が前世の記憶を持っていて、一度も行ったことのない町の家並やかつての自宅の見取り図なども描いて示すので、テレビ局のスタッフと行ってみることになった。彼女がそこへ行ったことのないのは、周囲の多くの人たちの証言によって間違いないということだった。実際に到着してみると家は半壊していたのだが、間取りなどはレンガ(または石材)の残骸から明らかになり、彼女が描いた見取り図と一致した。彼女はここに居間があって、ここに台所があってと懐かしそうに説明した。</p>

<p>もうひとつの例はインドの少年で、彼も生れた村から一度も出たことのないことは周囲の多くの人たちの証言で確かめられていた。彼は普段から自分の住む村からほど近い村に、かつての自分の家族や親戚が住んでいると言ってきかなかったため、大学の学者などが来て検証を行なった。そして彼は実際に彼の前世の血縁者と会い、その人たちの名前を言い当てた。また自分が何歳の時にどのように死んだかを告げ、かつての血縁者の証言によって彼の言っていることが間違いないと確認された。</p>

<p>こうした話は世界中にある。第三者を交えて証明していないものを含めれば数え切れないほどあるだろう。これらは何を意味しているのだろう。</p>

<p>転生など信じない、あるはずがないと言う人は、こうしたことにどのように答えられるだろうか。人生が一回きりで死んだ後は何もないと考える人は、自分が不幸だと感じれば人生は不条理で腹立たしいものと判断するしかないだろうし、また一回きりの人生なら、金儲けをして少しでも恵まれた生活をした方が得だと考えることだろう。また自分より不幸な人を見れば優越感を感じ、自分よりも裕福な人を見れば嫉妬に身をやつすかもしれない。だとしたら、こうした人たちこそ世の中を住みづらくしているのかも知れない。</p>

<p>さてもし転生があるとすれば、一つの生と次の生の間に人間の意識(あるいは魂)はどこにいるのだろう。そこをとりあえず霊界と名付けるなら、霊界でその意識は何をしているのだろう。</p>

<p>ほんの20年ほど前までは、霊界とはこういうところであるなどと言うと、どこかの宗教の信者のように見られたものだった。しかし最近では宗教とは何の関係もない人たちが霊界について色々言うようになった。宗教者でもないのに瞑想したり、ヨガをしたり、幽体離脱を体験したり、しまいには元々東洋の思想なのに、チャクラなどというアメリカから逆輸入した言葉を云々する人たちも増えてきている。</p>

<p>こうした現象が現れてきたのは、多くの人が宗教を離れた、真実のあの世を知りたいと思い始めた結果だと思う。もはや地球規模で情報を共有できるようになった現在、どの宗教が正しいとか間違っているとかは何の意味もなくなってしまったからだ。</p>

<p>こうした人たちには、転生は意味もなく起こるはずがないという思いがあるに違いない。だとすれば何らかの法則があるはずである。すなわちそこで次の人生の計画を練るのかも知れないし、前世で身に付いた垢を落としたり、あるいは充電したりするのかもしれない。</p>

<p>とは言え色々な意見があるだけでは何も見えてこないので、全体を統一的に説明する必要がある。次にそれを述べよう。</p>

<p><br />
<h4>所長の見解</h4></p>

<p>ここでは色々な人の意見や体験を取り入れ、私なりに考えた統一的な見解を述べようと思う。</p>

<p>まず前提条件として言っておかなければならないのは、我々が「死」と呼んでいるのは肉体の終わりに過ぎないということである。肉体の死の後も意識は継続して存在する。すなわち意識にとって肉体の死は、三次元との訣別を意味するに過ぎないということである。</p>

<p>さて肉体の死後、人は皆「天国」へ行く。この天国というのは自分の望む世界、すなわち自分の波動に一番合った世界という意味である。</p>

<p>魂あるいは意識の波動の最も高い者は、いきなり神界へ行く。するともうその人は人間に生まれる必要はなくなる。そして高次元の霊たち(我々はこれを神々と呼んでいるが)と共に、もっと波動の低い者たちをより高い段階へ導くための活動に就く。こうした高い波動を持つ人たちは他人(ひと)の役に立つことが目的で生きてきたので、その望みに適った世界、すなわち天国へ来たことになる。</p>

<p>もう少し意識の波動の低い者は霊界へ行く。彼らは人間的な我欲や虚栄心、物欲や羨望などを持っているので、霊界から同じ波動の世界、すなわち人間界に再び生まれることになる。彼らは様々な執着を持っているので、望んだ通りの世界である天国(現界)に再びやって来るのである。</p>

<p>さらに波動の低い者は幽界へ行く。彼らは憎しみや嫉妬、怒りや恐怖心を持ち、隷属や支配欲にまみれていて常に自分のことしか眼中にないため、自分のことしか眼中にない人々の集まる世界へ行く。</p>

<p>この幽界はもともとは存在しなかったのだが、人間の想念がその想念波のエネルギーによって創り出したものである。したがってこの幽界は無数の世界に分けられる。飛び降り自殺した人は死ぬ瞬間の強い想念をそのまま持って行くので、幽界でもその想念の世界に吸い込まれる。すなわちその人は自分の望んだ天国に行き、その世界で何度も何度も飛び降り自殺を繰り返すのである。</p>

<p>手首を切り続けた人が死ぬと(いわゆるリストカットなど)、暗く狭い世界に行き、そこで何十年も何百年も手首を切り続ける。(ただし幽界には三次元的な時間感覚はない)</p>

<p>政治の世界で権力闘争に明け暮れ、金と賄賂にまみれ、駆け引きと策謀の中で生きた人は、その人の望む、同じような人々が集まる世界へ行く。すなわち彼らは彼らの天国へ行くのである。そういう人たちは地上での生活と同じように政敵を誹謗中傷し、自分の方は賄賂にまみれながらも、有権者の前では清廉潔白を装い、厚顔無恥な生き方を延々と続ける。</p>

<p>宗教にのめり込んだ者たちは、同じ宗派の人々の集まる世界へ行く。これらの人々は、彼らを救おうとする神界の人たちにとっては最も始末に負えない人種だという。何故なら彼らは自分たちだけが正しいと思っているので、どんな説得にも応じないからである。彼らは毎日祈りを捧げ、自分の過ちを神に懺悔し、自分の欲深さを悔い、毎日毎日神に許しを乞う。けれども彼らはそうした自分に満足し、その欠点を受け入れているので、一向に自己改善はされず、したがって何百年経とうとその世界から抜け出すことはできない。</p>

<p>またこの世界の神父(または僧侶)も、地上でしてきたように物欲、肉欲、金の欲にまみれ、しかも信者に対しては清く正しい者であるがごとく振る舞い、それによって尊敬を集めて満足しているので、結局同じようにその世界から抜け出すことはできない。これらの人々は信者にしろ神父または僧侶にしろ、自分に執着することに喜びを感じているので、彼らの望む天国へ来たのだと言える。</p>

<p>このように自家撞着が強く、自分は善人だとまやかしの説得を自分にし続けている人たちは、はっきりと自分は間違っていたと認めやすい自殺者よりも始末が悪いかもしれない。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/spiritual.jpg" alt="イメージ" class="img_right" />このように幽界は人間の想念のエネルギーが創り出した世界なので、いうなれば想念の種類だけその数はある。また現界からきちんと霊界に行く人よりも、幽界に嵌(はま)る人の方が多いのかもしれない。だとしたら神界の高級霊は、三次元のこの世界よりも、幽界の手助けのためにより多く奔走している可能性がある。</p>

<p>神界、霊界、幽界は見方を変えれば単に精神(または魂)の波動の違いによって区分けされた世界だとも言える。そして幽界を除けば、神界と霊界は互いに波動を送り、受け取るという相互依存的な関係によって成り立っているのだと思う。</p>

<p>宇宙は初め十次元として生まれた、というのが現代物理学の見解だが(十一次元という考えもある)、この考えはほぼ間違いないだろうと私も思っている。ただし現代物理学は宇宙開闢の初期に、時間の一次元と空間の三次元を残して他の六次元は畳まれてしまった、との訳の分からない理屈を述べている。しかし私はすべての次元はそのままあると考えている。</p>

<p>三次元から十次元まで同時に成り立つためには、どの一つの次元も欠けてはならない。したがってそこには優劣、良し悪しの別はないと考えられる。あるとすれば互いの違いであって、それは宇宙が、その特性である多様性を展開してゆくために必要だったからである。</p>

<p>すべての精神＝魂は最終ゴールへ向けてそれぞれの道を歩いているのであって、違いは単に先を歩いているか後を歩いているかに過ぎない。例えば一軒のスーパー・マーケットを考えてみれば、そこへは多くの人がやって来る。彼らはそれぞれに違う道筋を選び、違う時間に来る。しかし誰も先に来た者は優れていて、後に来た者が劣っているなどとは思わない。結局は皆そこへ辿り着くだけである。</p>

<p>我々は同じ崇高な目標に向かって、それぞれの魂の道を、それぞれのペースで歩み続けている。時には歩けない者に手を貸し、時には自分も助けてもらい、時にはその道のりで喧嘩をし、時には反省して和解する。三次元の我欲にまみれた我々はまだ捨てなければならない多くのものを抱えているだろう。しかしやがては自分が本当は何者なのかを思い出し、宇宙の本質が何なのかを知り、そしてこのことに目覚めた時、この次元からより精妙な次元へと旅立つのだと思われる。</p>]]></description>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">死後の世界</category>
            
            
            <pubDate>Sun, 16 Nov 2008 21:38:03 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>存在の真偽</title>
            <description><![CDATA[<p>過去を振り返ると、地上のほぼすべての国や地域で死後の世界について語られてきた。けれどもそれは宗教として語られてきたと解釈されている。宗教を毛嫌いする人、宗教に関心のない人たちは死後の世界の話など鼻つまみもの、と考えるかも知れない。では宗教以外で死後の世界について語られている記録や言説はあるのだろうか。</p>

<p>神話は一応死後の世界について触れてはいるが、宗教のようにこの世とあの世を較べその関係性を述べているわけではない。宗教とは何かという定義にもよるが、神話が宗教かどうかは微妙な問題である。他に宗教以外で死後の世界について語られているのは伝承の類だろう。伝承の中には様々な次元の話があり、教訓的なものや心の真実に光を当てたもの、また宗教や神話に影響を受けたものなど多岐にわたっている。混乱を避けるため、これら宗教と神話と伝承について大雑把に分類しておこう。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/religion.jpg" alt="イメージ" class="img_right" />一般に認められている宗教・宗派の多くは、我々が生きているこの世界と死んだ後の世界とをはっきり分けている。そしてそれらの関係について説明している。ただキリスト教に関してはあの世についての言及がないのではないか、という人もいるかもしれない。しかしイエスが残したとされる言葉の中には、あの世あるいは転生を暗示するものがいくつかある。</p>

<p>キリスト教の一般の信者は組織の上層部の数人が解釈したことをそのまま鵜呑みにしているので、人生は一回きりで死んだ後は霊として最後の審判を待つだけだと思っているようである。しかし聖書には最後の審判については書かれてはいるが、人生が一回きりだとは書かれていない。いずれにしても聖書は天国についてははっきりと記述している。</p>

<p>これについてまとめると、宗教に関する限り、死後の世界を認めているということである。</p>

<p>次に神話について考えてみよう。一般に神話には神々の世界と我々人間の世界とがある。そして多くの場合黄泉(よみ)の世界が登場する。しかしこれらには宗教のようなはっきりした境界はなく、いわば陸続きのように繋がっている。天と地を行ったり来たり、また黄泉の国に行って帰って来たりということもしばしばある。</p>

<p>神話は生と死に言及しているというより、神々と人間の関係や民族の由来について多く言及している。かつて人間は神話の世界観・人生観に沿った生き方をしていたと言われる。すなわち神話は今でいう宗教と同じような機能を持っていたと言えるのかも知れない。近代に入って科学がこの宇宙について神話とは別の成り立ちを説き、物質世界に別の説明を加えるようになってからは、神話は科学に取って代わられてしまった感がある。現代の先進国に生きる人々が精神の安定を失っているのは、こうした神話の喪失によると説明する学者もいる。ただ一つ付け加えておかなければならないのは、宗教はその教えの主柱に善悪の基準を置いているのに対し、神話には善悪の基準はないということである。</p>

<p>これについてまとめると、神話にはあの世もこの世もあるが、宗教ほどそれらに隔たりはないということである。(ただし、神話における神々の世界が何を意味しているかは別問題である―これについては異星人の項で詳しく述べる)</p>

<p>では伝承についてはどうだろうか。先にも言ったように、単に伝承といってもその範囲は幅広く、定義するのは容易ではない。また多くの場合、伝承は民族の持つ神話や宗教を色濃く反映しているので、伝承独自の発想をその中から区別するのも難しい。しかしここでは伝承を分類するのが目的ではないので、このことには深く踏み込まないことにする。</p>

<p>伝承には神話や宗教にはない、庶民の底知れぬ知恵と笑いによるアイロニー(irony＝皮肉)が表現されている。そして書物などにまとめられていないものの中に、死後の世界に関する多くの言及がある。その中には宗教の影響の少ないものもあって、独自の見解を示すものもある。また幽霊話や怪奇譚など神話や宗教にない要素も含んでもいる。</p>

<p>これについてまとめると、伝承には宗教や神話の影響を受けながらも、それらにはない死生観が含まれているということである。</p>

<p>さてルネッサンスと共に始まった西洋近代哲学や、産業革命以来の科学万能主義が今や全世界を席捲していると言える。しかしいつ始まったとも知れない人類の長大な歴史から見ればこれらはまだ新参者である。考古学が説くところでは現生人類は少なくとも数万年の過去から歴史を刻んできている。ところがあらゆる生物の系統樹には<a href="http://mitsuno-y.com/file/200807/27_221155.html">ミッシング・リンク</a>があり、一つの種は次の種にとって代わられるまでほぼ同じ状態が続いている。「<a href="http://mitsuno-y.com/file/category/cat1.php">進化論</a>」の項でも言ったように、進化は常に新しい種と置き換わることによって起きてきたのであり、一つの種が継続する間、進化はなかったのである。すなわち人類も他の種にとって代わられるまで、誕生した時点から現在まで何ら進化はしていないことになる。</p>

<p>このように考えてくれば、近代に生まれた思想や科学技術などは表面的な変化に過ぎないのではないか。それらは長い歴史の検証を受けて生き残ったものではないし、これから長い歴史を経て検証され淘汰されて初めて評価が定まるからである。しかし西洋哲学をとってみても、長い歴史どころかわずか300年という短い期間ですでに破綻に至っている。現在の科学万能主義も、歯止めのかからない地球汚染を考えれば、近い将来破綻する可能性は大いにある。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/religion2.jpg" alt="イメージ" class="img_left" />では人類の持つ真の知恵をどこに求めればいいのだろう。もしそういったものがあるとすれば、何千年、何万年という歴史の検証に耐えてきたもの以外にないだろう。我々が知る限り、それに該当するのは神話、宗教、伝承である。他の項でも言ったように時代は進歩を続けているわけではない。現代が人類史上もっとも優れた政治制度や社会制度を持ち、最も優れた知識を持っているなどというのは、支配者が一般大衆に植えつけた幻想に過ぎない。時代は常に進展と後退を繰り返し、しかもその種が存続する限り、知識の集積や改善はあっても、質的な進化はないのである。それはルパート・シェルドレイクの、蝶の子は蝶であり、蛙の子は蛙であり、人の子は人であるという言及と同じである。</p>

<p>人間の由来や死後の世界についての真実、すなわちこれら人類の文化遺産と言うべきものは、神話や宗教や伝承の中にしかないというのが認めざるを得ない事実である。ただしそれらの中には互いに相反する言及も含まれているので、すべてが正しいというわけではない。しかし歴史の検証に耐えてきたのはこれ以外にないので、これらは我々が真実を学び得る数少ない人類の知恵だと言える。果たして我々は死後の世界について、それらから何を学び得るだろうか。</p>

<p><br />
<h4>所長の見解</h4></p>

<p>我々の生きているこの時代において、もはやどの宗教が正しく、どの宗教が正しくないかなどという疑問は過去のものになった。なぜなら我々が知りたいのはどの宗教・宗派が正しいかではなく、真実は何なのかということだからだ。</p>

<p>いくつかの宗教が歴史の検証に耐えてきたとはいえ、現在世界には何十万という宗教・宗派が存在する。誰一人としてこれら全てを学び、比較検討して一つの宗派を選んだ信者などいないだろう。ほとんどの場合、親が信者だったから、兄弟に誘われたから、先輩や友人に誘われたからなど、信者になった動機はたいてい単純なものである。だがいったん信者になると、彼らは平気で他の宗教・宗派を批判するようになる。一体そういう人たちはどういう神経をしているのだろう。何故そんなに簡単に洗脳されてしまうのか。私の考えでは、その根底には不安から逃れるため、決定論を渇望する心理が働いているのではないかと思う。彼らのやり方は、<a href="http://mitsuno-y.com/file/category/cat1.php">進化論</a>のところで話した正統主流の学者たちのやり方とそっくりである。自分たちに都合のいい情報は受け入れ、都合の悪い情報は無視するというやり方によって彼らはドグマ(dogma=独断的な信念)に陥るのである。</p>

<p>どの宗教・宗派が真実を語っているのかなど検証できるものなのだろうか。比較宗教学という学問もあるが、その分野の学者が行なっているのは分類と比較であって真実の探求などではない。しかも彼らにとっても、毎日生まれてくる新興宗教の全てを検証することなど不可能で、主な宗教について比較分類するのが精一杯である。</p>

<p>近年、古臭い感じのする宗教を離れ、流行りのスピリチュアルな集団に身を置く人もいる(ニューエイジの活動もそうだが)。しかしこれにも一長一短がある。私は彼らが言う魂の目覚めはどんなきっかけによってもかまわないと思っているが、しかし中には宗教法人ではないものの、自分たちの考えを絶対と思い、他の集団を批判するといった、いわゆる宗教と同じような傾向を帯びるものもある。また中には徐々に儀式的なものを取り入れてゆく集団もあって、それらは規律のない緩やかな宗教集団、といった様相を帯びている。</p>

<p>神話について言うなら、現代は世界規模で情報が行き交うようになり、特定の民族についての物語である神話はその普遍性を失った感じがある。また日本の神道(しんとう)もそうだが、神話は民族の出自・由来を語り継ぐもので、教えを説くものではない。それが証拠に、宗教組織の上に立つ人たちは皆説教をするが、神道の宮司は説教をしない。説話さえしない。神話を語るのは親や祖父母であり、また多くの人生の先輩たちに過ぎない。これが神話が宗教ではないと言われる理由となっている。日本の神道の宮司は日本人が歩んできた人としての道を、身をもって示しているだけである。</p>

<p>最後に伝承について言うと、これらの中には異界について語るものもあるが、多くは日常における人間の生き様やそれに対する皮肉や教えといったものが多い。我々がこの世で生きてゆく上で、多くの示唆と教訓をそれらの伝承から得ることができる。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/present.jpg" alt="現代社会イメージ" class="img_right" />さてこれら神話と宗教と伝承に共通しているのは、その表現形態は違うにしろ、死後の世界を認めているということである。現代社会は日常から死を疎外してしまったため、その対極にある生が存在の論拠を失ってしまった感がある。人類の文化遺産であるこれら三つは、その存在の重みを失うと同時に、我々の生と命の重みも失ってしまったように思える。死を見つめることによって生の輝きを知ることができるように、かつては死後の世界を認めることによって、生の在り方を模索することができたのではないだろうか。</p>

<p>人類の歴史や文化を顧みることなく、欧米人が作り出した人間機械論的な考えに洗脳され、死後の世界などないと言い切る人たちは、自らの生き方を現世に限り、物とお金と自分自身だけにこだわる人生を生きているように思われる。それは自分の見識の狭さと利己的な生き方を世間に露呈しているようなものだと思う。我々は死後の問題については、単に否定することによって解決するのではなく、物質的観念の呪縛から自分を解き放って、真摯な態度で見つめ直し、そこに何が秘められているかを見極めなければならないと思う。</p>]]></description>
            <link>http://mitsuno-y.com/file/200811/16_213156.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">死後の世界</category>
            
            
            <pubDate>Sun, 16 Nov 2008 21:31:56 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>脳と意識</title>
            <description><![CDATA[<p>先に言ったように意識が神の分霊だとしたら、脳は果たしてどんな役割をしているのだろうか。脳科学者が言っているように人体、想念、行動のすべてを脳が支配しているというのは信じがたいことである。何故なら我々の精神活動の最も重要な部分である意識そのものや、指令の中枢がどこにあるかなどは分かっていないからである。</p>

<p>バイク事故で死んだ青年の心臓を移植された女性が、それまで肉を食べなかったのに急に大好きになり、また事故の場面を思い出した、といった例に見るように、記憶でさえ脳の専売特許でないことが分かってきている。</p>

<p>我々は意識が身体のどこか、あるいは脳のどこかにあると思っているが、もしこの宇宙が多次元で成り立っているとすると、意識は同じ空間の四次元または五次元にあると考えてもかまわないことになる。これはどういうことかというと、我々がいる三次元空間が四次元・五次元と重なり、同じ空間を共有しているということである。ただし実際には異次元となれば場所というものの概念が変わってしまう。すなわち同じ場所とか違う場所といった言葉は意味をなさなくなるので、単にこれは三次元の側から見た言い方にすぎない。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/img_ishiki.jpg" alt="イメージ" class="img_left" />いずれにせよ多次元の宇宙を想定すれば、意識は我々の知っている世界より高い次元にあると考えることができる。意識が高い次元にあるとすれば、閃(ひらめ)きや気付きがどこからやってくるのか説明できることになる。深層心理学の難解な論理を用いなくても、突然やってくるこの知覚が高い次元にある自分の意識からの賜物だと考えれば、問題の解決につながる。</p>

<p>では脳自体は一体何の役割を担っているのだろうか。まず第一に考えられるのは、この三次元を認識することである。赤子が机の角に当たったり、転んで重い頭を床にぶつけたり、やわらかい布団の上で気持ちよく転がって遊んだり、そのようにしてこの物質界の状況を徐々に理解し、肉体を傷つけずに生きる術(すべ)を学んでゆく。少し大きくなると行儀や言葉遣いを学び、さらに大きくなると文字を書くことや計算の仕方を学ぶ。</p>

<p>こうして物質世界での生活が可能になるまで学び続け、やがて社会人となって失敗を繰り返しながら仕事の要領を憶えてゆく。このころにはすっかり物質界に馴染み、空を飛んだり壁を通り抜けたりできないのは当然と思うようになっている。</p>

<p>このように脳は、一つにはこの三次元で物理的に生きてゆくための知識を得るためにある。しかしこの過程で、人は閃きや気付きの素晴らしさも体験する。だがほとんどの場合、それらは自分の能力のなせる業だと思い、単に優越を感じたり喜びを感じたりするが、それらがどこから来たのかは考えたりしない。</p>

<p>心理学者なら、これは無意識の深いところで様々な思いが絡み合い、最終的に集約されたものが意識に浮かび上がってきたのだと説明することだろう。脳科学者なら、電気的・化学的反応が脳内で複雑に絡み合い、最終的に収斂した信号が気付きや閃きとして認識される、と説明するかもしれない。</p>

<p>もしこうした説明がなされたとしても、一般の人々は門外漢なので、学者が言うんだからそんなところだろうと鵜呑みにするしかない。しかし本当にそうだろうか。正直に感じるところを言えば、閃きや気付きはいつも突然、何の前触れもなくやって来るのではないか。それが脳内で、あるいは無意識の層で、さまざまな相克の結果やってくるのだと結論付けていいものだろうか。なぜ様々な思いの絡み合いや相克は意識されないで、収斂された結果だけが意識されるのか。</p>

<p><br />
<h4>所長の見解</h4></p>

<p>脳の第一の機能は今言ったように三次元で生きてゆくための知識を得ることだが、脳の第二の機能は受信機としての役割ではないかと私は思っている。</p>

<p>脳が単に電気的・化学的反応を行なっているに過ぎないのなら、計算したり論理をこね回すコンピュータと変わらないと思う。しかしコンピュータが意識を持っているなどとは誰も考えないだろう。だとしたら脳は物質以上のもので、意識や閃きなどは脳のまったく違う機能によるものと考えなければならない。</p>

<p>さらに脳科学者が言うように、さまざまな反応過程が脳内で起こっているなら、意識される過程と意識されない過程はどのように分けられるのかが問題となる。また深層心理学者の言うように、人間の精神に意識と無意識の領域があるのなら、いったい何ものが如何なる基準のよってそれを分け、どのような過程を経て無意識から意識に現われてくるのかが問題となる。</p>

<p>このように現代の学問が行なっている意識に対する取り組みは、混迷と複雑化の只中にあり、こうした論法を用いていては解明への道は見えてこないと思われる。この閉塞状況を招いている原因はあくまでもこの三次元にこだわっているからであり、物質現象のみを対象とし、論理のみによって解こうとしているからである。</p>

<p>もし脳が高い次元からの情報を受け取り、またこの次元で得た情報を送り返して相互作用しているのだとしたら、気付きや閃きについての新しい解釈の道が見えてくると思う。</p>

<p>日本語では「すべての生き物に霊が宿る」と言い、人間のことを「霊長類」という。この「霊」というのは、それが物質以上のものであることを意味している。英語にはこうした表現はない。霊長類と訳している英単語は primate であり、これはキリスト教の大主教を意味する単語でもある。彼ら欧米人には、この物質以上ということが理解しがたいようである。イエス自身は東洋人で黄色人種だったせいもあってか、霊については何度も言及し、人間が霊的な存在であることを伝えようとしている。</p>

<p>人に霊が宿っているなら、当然その霊は霊界と通じているわけで、脳は霊界からの通信を受け取る役目を担っていると考えるのが自然である。脳は松果体を通して物質界の情報を送り、霊界(あるいは高次元)でそれが受け取られ、精査されてこの三次元に送り返されて来る。もしそうした過程があるなら、我々の多くは三次元しか感知できないので、それを受け取った時、閃きや気付きとして感じられるのだと思う。</p>

<p>脳は発信し受信する。一度この前提に立てば、さまざまな謎に切り込むことができる。たとえば正夢や予感なども、高い次元から発信されたものを脳が受け取ったということかもしれないし、初めて行った場所なのに見たことがあると感じるような経験も、脳が高い次元にアクセスして、前もって記憶していたということかもしれない。これなどは「未来の記憶」として解釈できる。</p>

<p>また旅行などで初めて訪れた国や場所に非常な懐かしさを感じるといった場合も、前世や前々世などでそこで暮らしたことがあり、過去の自分の想念や行動様式などがエネルギー場として異次元に残っていて、そこに脳がアクセスして記憶が呼び覚まされた、ということかもしれない。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/su.jpg" alt="クモの巣" class="img_right" />一旦この前提に立てば、推論は人間に限らなくてもよくなる。たとえば蜘蛛が誰にも教わらずに(くっつかない)縦糸と(くっつく)横糸を分けてきれいに巣を作るのも、一種の神懸かりのような状態で高い次元から情報を得て行なっている可能性がある。また魚の鮭が大洋を回遊したのち生まれた川に戻ってくるのも、鳥のキョクアジサシが北極と南極の間を行き来するのも、さらには今まで謎とされてきた様々な生き物の生態にも、容易に説明を加えることが可能になると思う。</p>

<p>さて覚醒時に気付きや閃きは起こるが、眠っているときに意識は霊界に行っているという説がある。もともとなぜ我々は眠らねばならないのかは解っていない。医学的には、疲れを取るためなら横になっているだけでほとんど体力は回復するという。眠らない生物もいくらもいる。では我々は何故眠るのか。</p>

<p>一つの考え方は、意識は何らかの形で肉体と結びついてはいるが、時空を越えて移動できるということである。すなわち眠っている間、我々の意識は霊界あるいは高次元に行き、この世の垢を落としたり学びを得たりして帰って来るのかもしれない。しかし一旦肉体に戻るとその内容は魂に埋め込まれてしまうので、訓練を積んだ特別な人しか思い出すことができない。しかしいずれにせよ意識は時空を超えて移動できるので、我々が肉体にこだわることをやめれば霊界または異次元に意識を移動させることは可能となるだろう。</p>

<p>脳だけを見ている限り学者はこうした考察の広がりを持つことはないと思われる。彼らは物質に捉われ過ぎているので、三次元を超えた自由な思考ができなくなっているのである。しかしもしこの三次元のしがらみを解き放つことができれば、別の地平が見えてくるだろう。それは「我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか」という問題にも、改めて答えられる地平となるのではないだろうか。</p>]]></description>
            <link>http://mitsuno-y.com/file/200810/20_163544.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">意識</category>
            
            
            <pubDate>Mon, 20 Oct 2008 16:35:44 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>東洋と西洋の意識の違い</title>
            <description><![CDATA[<p>すでに述べたように、欧米人は宇宙も人体も物理的・化学的反応に還元して見ようとしている。感情でさえ、ドーパミンやアドレナリンなど、体内物質の化学反応で説明しようとしている。この考えは西洋医学にも見られ、疲れれば栄養素を含んだ食品ではなくて栄養補強剤、癌になれば身体の他の部分にとって明らかに害であるのに抗癌剤という名の毒を盛り、内臓が侵されればまるでロボットの部品を取り換えるように臓器移植を行なっている。</p>

<p>日本には江戸時代まで漢方医学というものがあったのだが、明治政府が西洋医学を学んだ者にだけ医師の資格を与えたため、漢方医学の医者は医療を行えなくなってしまった。しかも西洋医学と共に、上に述べた人間を物と見做す西洋の考え方も一緒に取り入れてしまった。このため医療現場では、現在も人体を単に複雑な機械と見做す考えが支配してしまっている。</p>

<p>さて、このことを踏まえて欧米人の意識について考えてみよう。欧米人はキリスト教の影響が強く、個人の安定は神との契約によって成り立ち、個人同士の横の繋がりによって成り立っているのではない。これは特に白人のキリスト教国に顕著で、東洋人とりわけ日本人とは対照的である。</p>

<p>欧米は個人主義の国であると言われるが、それは個人個人が唯一絶対の神と契約を結び、それ以外のものには救いを求めず従いもしない、ということを約束しているからである。神の方もそうした従順で言うことをきく者だけを助けてやろうと表明している。こうして人間同士の横の繋がりではなく、神と個人の縦の繋がりが何百年、何千年と続いたため、教会などへ行かない現在の人たちも、個人としての独立を強く強いられるようになっている。これは人間関係を最優先させ、＊「和をもって貴しと為す」といった日本的な生き方とは正反対である。（注＊聖徳太子の十七条憲法の第一条）</p>

<p>欧米では子育て・教育の面でも個人の独立が優先される。乳離れした子は泣こうがわめこうが親とは別の部屋で寝せられるのが一般的である。それは幼いころから独立心を養うためだ、というのが彼らの言い分である。日本のように親子が「川の字になって寝る」というような状況は、彼等から見れば依存心をいつまでも残し、個人の独立を遅らせる間違った子育て、ということになる。これも親と子が心を重ね合わせるまで寝食を共にする日本の伝統とは対照的である。</p>

<p>欧米の子供は学校へ通うようになると、そこで個人の能力を高めることを求められる。彼らは何か一つの能力に秀でると評価され賞賛される。もちろん総合的に能力が高いに越したことはないが、アメリカでは特に一番であることが賞賛され、一芸に秀でれば他の面は大目に見られる。これは何が何でも世界一でなければ気が済まないアメリカの驕(おご)りと傲慢さを顕著に表わしている。</p>

<p>大人になると大多数の欧米人は日本人と同じように会社勤めをするわけだが、ここでも彼らは神と交わした契約のように、経営者と契約を結び、自分と経営者という縦の関係を作る。しかしこれは日本の場合と様相が違う。日本人は経営者との契約関係をはっきり意識している人は少ない。何故なら本来日本人はいかなる組織においても家族関係を築こうとするからで、これは日本人の伝統的な特徴だからである。こうしたことを現在の日本人が認識するのは難しいが、終身雇用制と年功序列によって先進国にのし上がった唯一の国として世界の注目を集めたことを見れば、お分かりいただけるのではないかと思う。</p>

<p>今でこそアメリカの真似をして終身雇用制も年功序列もすっかり崩れてしまったが、かつてシンガポールの大統領は日本に終身雇用制（および年功序列）を維持してほしいと何度も訴えていたものである。日本の高い技術は先輩から後輩に受け継がれ、一種の徒弟制度のようなものとして生き残っていたのだが、それが残り得たのは年功序列によって逆転人事をしなかったからである。これは後輩が先輩を追い越して上司になることはなかったという意味である。</p>

<p>もし後輩がいつの日か自分の上司になるかもしれないと思ったら、喜んで自分の持つ技術を後輩に教えるだろうか。こうした逆転人事がなかったからこそ、家族である兄が弟に教えるように、技術は的確に伝えられ、互いに創意工夫して水準を高めてゆくことができたのである。</p>

<p>さて欧米人が結婚するときは契約を交わす。これは役所に婚姻届を出すという意味ではない。フランスでは若い夫婦の大半は婚姻届など出していない。そういう意味ではなくて、彼らは神と契約を交わしたように、夫婦になる際も心の中で契約を交わすのである。欧米社会は個人の集団で成り立たねばならないので、どうしても契約が必要となるからである。これは日本人から見れば、何と無機的なことか、ということになるだろう。日本の社会はもともと先祖・親・先輩・後輩といった縦の関係と、兄弟・姉妹・友人・同級生・同僚といった横の関係とで成り立っていた。それは言わばきめ細かな網の目のようなもので、我々日本人は唯一絶対の神などなくても精神の安定を得ることができたのである。あえて神を持ち出すとすれば、先祖霊のような人間が昇格した神であり、またこの世の様々なものに宿るとされる自然霊である。</p>

<p><br />
<h4>所長の見解</h4></p>

<p>東洋と西洋の意識と心の違いについて述べてきたが、ここでこうした違いがさらに立体的に見えるように別の説明を試みてみよう。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/westpeople.jpg" alt="西洋人の心と安定" class="img_right" />欧米人は心の重なりを持っていない。これは図形的な表現をすれば、社会という四角い枠の中に、個人といういくつもの円が重なることなくバラバラに存在している状態である。日本人は社会という枠の中に、いくつもの円が幾重にも重なって存在している状態と言える。</p>

<p>欧米人は各個人が独立して存在しているので、このままではすこぶる安定が悪い。それで各個人は神と糸を結んで安定性を得ようとするが、これができたとしても横の繋がりがないのでまだ安定性は悪い。そのためより確実な安定を得ようと自己を拡大してゆく。言い換えれば個人の肥大化である。しかしこれを続けてゆけばやがて隣との境界にぶつかり、争いとなる。互いに個人を肥大させたため、あらゆる局面で対立せざるを得なくなった。欧米人は安定を得るため自己を拡大しなければならなかったため、運命的に闘争を強いられる生き方を選ぶことになったのである。</p>

<p>心の重なりを持たない欧米人は、互いの人間性に信頼が持てないため契約を優先する。言い換えれば心を共有することがないので、言葉で確認しなければならないのである。この言葉を文字にしたものが契約である。したがって契約の元である言葉は彼らにとって非常に重要なもので、「嘘つき」という表現は日本人が想像できないほど強い侮蔑的な意味を持つ。また「約束する」という言葉も我々の想像を超えた重みを持つことになる。You are a liar. また I promise. といった表現はしばしば洋画で用いられる台詞(せりふ)でもある。</p>

<p>このように彼らは「契約＝言葉＝論理」という図式を頭の中に持っている。これは契約は言葉であり、言葉は論理である、という意味である(Logos には論理及び神の言葉という、二つの意味がある)。したがって彼らは論理を超えた認識を持つことはないし、言葉を雰囲気として受け取ることもない。日本文学に接する際の態度として言われる「行間を読む」などといった表現も彼らにはとうてい理解しがたいものだろう。</p>

<p>洋画にかぶれた現在の日本人は、欧米人の夫婦が朝に晩に " I love you." と言い合うのを見て羨ましいと思うかもしれない。しかしこれはとんでもない誤解である。彼らの心は重なることがないので、いちいち確認しなければならないだけのことなのである。すなわち心が互いに独立しているので、昨日までは愛していたが、今日は愛しているかどうか分からない。それで毎朝毎晩確認を取るのである。しかも彼らは論理しか理解できないので、明けても暮れても言葉で言い合わなければ安心できない哀れな人々なのである。</p>

<p>本来の日本人は彼らと全く違う心や意識の構造を持っていた。我々は極端な話、「好きだ」と一回言えば一生有効なのである。後は心が重なり合っているので、日々の態度や物の言い方で、今も好きかどうか判断できるのである。普通の人間関係でも、まず心で触れ合おうとし、言葉自体はそれほど重要ではない。また我々は欧米人のようにベタベタとキスをしたり抱き合ったりしない。それは体よりも心で触れ合おうとするからであり、またいくら体で触れ合っても、心の距離が縮まるわけではないこと知っているからである。</p>

<p>我々は約束に関しても必ずしも守られるものだと思っていないし、嘘を吐くこともそれほど悪いことだとは思わず、上手に使うものだと思っている。それは人が論理で生きているのではないと知っているからであり、心や感性や、もっと言えば魂の躍動によって我々は生きていると無意識に感じているからである。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/japanese.jpg" alt="日本人の心と安定" class="img_right" />日本人は自己を拡大するのではなく、心を拡大し重ね合わせることに努力してきた。夫婦、親子、兄弟姉妹は言葉を交わさなくても多くのことを理解し合えるし、心を広げて友人知人とも心を重ね合えるようになる。我々は様々な人間関係の中で幾重にも心を重ねているのであり、実は意識はしていないが、日本人全員とも心を重ねている部分があるのである。</p>

<p>このように日本人と欧米人の意識や心の在り方は信じがたいほど違う。深層心理学者のユングが、東洋人と西洋人の意識と心の違いを描き出してから久しいが、果たしてどれだけの人が現在その違いを理解しているだろうか。しかも日本人は欧米文化への憧れで頭がおかしくなってしまい、食べ物、着るもの、生活様式、考え方、社会構造、雇用形態など、ありとあらゆる事柄に関して「猿まね」のように無節操に欧米に真似ている。言葉さえ新聞、雑誌、テレビ、その他でわけのわからないカタカナ英語が大量に使われ、いったいこれが日本語なのかと疑いたくなるような有様である。</p>

<p>我々は日本人である。このことを忘れてはいないだろうか。日本には日本人が長い歴史の中で培ってきた独自の文化がある。この貴重な文化が今まさに消えようとしているのではないだろうか。こうしたことを憂うるのは私だけではないと思うのだが。</p>

<p>最後に一言付け加えておくが、私は欧米人の意識や文化を否定したくて述べてきたのではない。日本人は長い歴史の中で様々な外国の文化を受け入れてきた。しかし我々の祖先は決してそれに席巻されることはなかったのである。常にいいところだけ取り入れ、自分たちの文化に合うように馴染(なじ)ませてきた。すなわち日本人であることを忘れなかったのである。</p>

<p>しかし現代の我々は恐ろしい勢いで押し寄せてくる外国文化の旋風の中にいて、日本文化が消滅しつつあるのを目の当たりにしている。私の願いとしては我々の祖先がこれまでやってきたように、この時代も日本文化を守りながら他国の文化のいいところだけを取り入れ、日本文化に馴染ませる努力をしてほしいものだと思っている。</p>]]></description>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">意識</category>
            
            
            <pubDate>Mon, 20 Oct 2008 16:30:12 +0900</pubDate>
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            <title>意識の所在</title>
            <description><![CDATA[<p>意識はどこにあるのか。これは哲学、心理学、脳科学をもってしても未だに答えが得られていない問題である。</p>

<p>霊的世界を葬る役目を演じた近代西洋哲学は、幾度かこの問題に挑戦したが、ほとんど目に見える成果は上げられなかった。近代哲学の父といわれるデカルトが言った「コギト・エルゴ・スム」＝「われ思う、ゆえに我あり」という有名な言葉があるが、今では完全に論拠を失っている。これは、全てを疑ってもその疑っている意識だけは疑えない、ということを言ったものだが、しかしすべてを疑っている意識さえ疑い得ることを現代哲学は論証した。デカルトの後、ヘーゲルやフッサールが精神現象学という分野に挑み、意識についての論考を試みたが、結局意識そのものの所在や由来は解明できなかった。</p>

<p>近代哲学が果たしたのは、中世のキリスト教スコラ哲学からの脱却で、神と関わった論考から、神と切り離した論考へと変えたことである。これは言い換えれば、神中心の考えから人間中心の考えへと変えたということである。その意味するところは大きい。なぜならこの過程で人間の霊性と霊的能力を共に葬り去ったからである。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/kikai.jpg" alt="イメージ" class="img_right" />近代西洋哲学は論理至上主義へと突き進み、その果てに機械論へとたどり着いた。これは人間の霊性を理性に置き換え、自然現象を原因と結果による無機的な過程と見做し、人体を化学的・電気的反応ロボットと看做すようになった、ということである。そこから現われてくるのは自然は征服すべきものだという発想であり、東洋人が持つような自然との共生という発想は入り込む余地はなくなり、人間が肉体以上のものであるという発想も許されなくなった。現代の欧米人の基本的なものの考え方はこのようなものなのである。</p>

<p>近年脳科学が発達したと言われているため、一般の人たちはやがて脳の機能も解明されるだろうと思っているかもしれない。しかし学者たちは脳の内部外部の電気的反応および化学的反応を、単にデータ化して読み取っているにすぎない。実のところ脳の機能の全体像や統制の中枢など、本質的なことは何も明らかにはされていないのである。</p>

<p>1935年にアドライアンが脳波の測定を行なった時、世界中の人がもうすぐ脳の仕組みが解明され、しかも人間の考えていることは外部の脳波測定装置によって捉えられるだろうと思ったものだった。しかし実際はそうはならなかった。人間の精神活動は電気信号や化学反応に還元できるほど底の浅いものではなかったのである。しかし脳科学者たちは、アドライアンの脳波測定から70年以上も経っているのに、現在の研究の先に物理的解明の時が来ると信じているようである。</p>

<p>デカルトが「方法序説」を書いたのが1637年だから、哲学史を含めれば370年以上も意識や認識についての考察・研究を行なってきている。それでも本質的なことは何も分からず、認識の基本となる、見たものをどう脳の中で映像化しているのかという問題にさえほとんど答えを得られないでいる。</p>

<p>西洋哲学がかつて主要なテーマの一つとした認識論は、このようについに何らの具体的成果を得ることもなく現在に至っている。これは一体何を意味しているのだろう。もう一度東洋的な霊的解釈に戻らなければ、この問いには切り込めないことを示唆しているのではないだろうか。</p>

<p><br />
<h4>所長の見解</h4></p>

<p>認識論について言えば、東洋では紀元前のインドで、仏教の誕生前後からすでに議論されている。そして部派仏教の時代に入ると本格的な究明が試みられ、煩雑な解釈がなされている。その挑戦は私の印象ではフッサールの現象学よりはるかに壮大で奥が深い。</p>

<p>しかし東西を問わず、現在なお最終的な解明には至っていないのも事実である。実は意識は、私が思うには宇宙の始まりの問題と同じく、最も本源的な問題で、神とは何かという問題と深く関わっている。それは何故かと言うと、第一に、宇宙だけが存在してもそれを意識する何者もいなければ、存在しないも同然となるからであり、その様子は宇宙が機械仕掛けの巨大なロボットとして、エネルギー交換と化学反応を繰り返しながら勝手に動いている状態だと見做すことができるからである。これは意識的な存在である我々には想像し難いことだが、この場合は岩も水も大地も意識を持たず、さらにあらゆる生物も化学的・電気的反応をしている単なる物質にすぎないことを意味している。</p>

<p>第二に、もし宇宙を造った何者かがいるなら、神と名付けられたこの存在は意識を持っていることを前提としており、意識あるものが意識的な宇宙を生み出したことになる。なぜなら最初の意識体が意識を持たない宇宙を造ったとは考えにくいからである。したがって人間が勝手に分類した「生物と無生物」といった言い方は、この場合、意味をなさないことになり、すべては意識的でなければならないことになる。言い換えれば初めにあったのは意識であり、意識以前には何も存在しなかったことになるのである。</p>

<p>このように、宇宙という場合、それが意識的なものかどうか、また意識されるものかどうかが大きく関わっている。これは宇宙創成の時期まで遡る問題であり、実は現今の宇宙論はこうした重要な問題を無視し、避けて通っているのである。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/img_cosmic.jpg" alt="宇宙イメージ" class="img_left" />さて最初の意識体は神で、神が宇宙を創造したと想定してみよう。すると神が宇宙を創造したとしても、神自身が宇宙の外側にいて宇宙を造ることはできなかったはずである。何故なら宇宙に外側があるなら、そこも宇宙に含めなければ宇宙全体とはならないからであり、したがって神はこの宇宙内で宇宙を創造したことになる。するとここにも矛盾が出てくる。宇宙内、すなわち宇宙の内部にいるということは、神以前にすでに宇宙があったことになるからである。わかりやすく言うと「風呂の中にいる」といった場合、先に風呂があってその中に入ったことを意味するからであり、先に誰かがいて風呂が後でやってきたわけではないからである。</p>

<p>このように考えてくると神は宇宙の外にも内にもいなかったことになってしまう。しかし問題解決の道はある。それは神がこの宇宙そのものだと考えることである。すべては神であり、宇宙のどこをとっても神の一領域であり、したがって我々も神の一部である、と考えればいいのである。</p>

<p>神は意識をもって自らを展開してきたのがこの宇宙であり、したがってすべての存在は意識的であり、我々も意識的存在である。これは神とは意識そのものだということを意味している。神は意識であり、その意識体が宇宙として自らを展開し、我々もその一部として意識を持っている。しかも宇宙は神自身なので、その中にあるすべてのものは有機的に結びついている。したがって我々はこの宇宙のすべての存在と細かな網のように結びついており、あらゆるものと感応することが可能であり、あらゆることを知り得るのである。</p>

<p>これは言い方を換えれば、神は霊であり、我々は神の分霊であり、すべての存在には霊が宿り、しかもこの霊とは意識そのものである、ということになる。</p>

<p>現代の欧米人の宇宙観・人間観は、すべての物事を重力・化学反応・電気的反応・エントロピー・熱反応など、無機的な物理法則に還元して考えようとするものである。このため意識についても脳内の何らかの反応であるとして、その存在のありかを脳に求めている。最近は脳内における量子論的な同時多発的反応が意識を発生させる、などといった訳の分からない学説まで出てきている。私に言わせれば、では量子論的な同時多発反応を機械の中で起こさせれば機械も意識を持つようになるのか、と問いたいところである。</p>

<p>このような考えは欧米人から始まったものだが、今や日本を含めた欧米の経済的影響下にあるすべての国で受け入れられ、宇宙は意識を持たない科学的法則に従う単なる「物」となり下がってしまっている。</p>]]></description>
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            <pubDate>Mon, 20 Oct 2008 16:26:01 +0900</pubDate>
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            <title>太陽系</title>
            <description><![CDATA[<p>太陽系の生成に関する物語は、ほぼ非の打ちどころがないものとして学校で教えられている。一般の科学雑誌でもすでに確定した定説であるかのように取り扱っている。したがって多くの人はそれに疑問を持つことなく、ガス雲が次第に寄り集まって太陽ができ、太陽の周りを回っていたガス雲が寄り集まって惑星ができたという物語を信じている。</p>

<p>科学が宗教のようになってしまった現代では、一般の人々は科学がそう言っているのだから、あるいは科学者がそう言っているのだから間違いない、という信仰のもとに全てを受け入れている。これは中世のヨーロッパで、神父の言うことに誰も疑問を抱かなかった状況とよく似ている。また日本の戦時中、天皇の直属の統帥機関である大本営の発表を、ほとんどの国民が信じて疑わなかった状況とも非常によく似ている。</p>

<p>太陽系生成のシミュレーションにはいくつもの不確定要素が含まれている。まずビッグ・バン以降宇宙空間を漂っていたガスは、何らかの形で偏りができなければならない。これを学者たちはガス雲に<strong>ゆらぎ</strong>があったためと説明している。ではゆらぎとは一体何なのか。これについての詳しい説明はない。すなわち何故ゆらぎが起こったのか説明できないのだ。さらにゆらぎの規模についてもである。もしゆらぎが大きな規模で起これば太陽の数十倍、数百倍の質量が一ヶ所に集まることになり、一気に過熱し爆発して太陽にはならない。後にはブラック・ホールが残るだけである。逆にゆらぎの規模が小さければ、質量が少ないため、できた太陽は輝くことはできない。どうして我々の太陽系はちょうどよいゆらぎによって、ちょうどよい大きさになれたのだろうか。科学者はここでも偶然という魔法を持ち出すのである。まるでこの魔法は神の意志、神の全能の働きでもあるかのように。</p>

<p>これ以降の惑星生成過程は奇妙奇天烈としか言いようがない。まず中心の太陽の核に向かって集まって来たガスは、外縁部の回転速度が速まるにつれて中心核に落ち込めなくなり、太陽の赤道面に集まるようになる。この時点で太陽はまだ核融合を始めていないが、重力エネルギーが解放されるため輝き始める。これによって宇宙塵がいったん吹き飛ばされる。やがて太陽系円盤内で、盤面に集められた塵とそれを覆うガスが分離する。そして塵で固まった円盤は自らの重力不安定性によって一気に分裂する。分裂した塊はやがてひとまとまりになって微惑星となる。微惑星は円盤の中で太陽の周りを公転するが、必ずしも円を描くわけではないので、互いに衝突し合体する（この場合ガスがあるので、衝突によって崩壊するのではなく、合体するのだという）。この